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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年2月号

川辺川ダム その後の動き

清流・球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会
球磨川大水害体験者の会事務局長 重松隆敏


 ダム建設反対が過半数

 球磨川漁協は、昨年二月の総代会に続き、十一月の臨時総会の二回にわたって、ダム建設に伴う漁業権の一部消滅に対する補償として国土交通省が提示した約十六億五千万円の漁業補償契約案を否決した。このため、国土交通省は漁業権収用の裁決申請を県収用委員会に行った。
 これらの行為は、住民の意思を無視し、なにがなんでも「ダム建設」を強行しようとする国土交通省、そして小泉内閣の姿勢が表れている。
 さらに、平成九年に河川法が改正され「河川の整備計画に関係住民の意見を反映すること」が新たに条文化されたにも関わらず、この精神を投げ捨てたものである。
 そして、国民の基本的権利である財産権を強制的に取り上げるには、目的に明白な公共性があり、そこに至るまでの手続きは多くの国民、とりわけ利害関係者が納得するものでなければならない。
 十二月四日の地元・熊本日日新聞でも「県民世論は建設に『反対』が五四%、『賛成』一九%となっており、流域住民の過半数がダム建設に反対している現在、ダム建設に明白な公共性があるとは考えにくい」とした上で、「ダム建設を一時中止をし、代替案を含めた事業の抜本的見直しと、徹底した対話、説明責任を果たすことが行政に求められている」と強調している。
 このことは国土交通省職員の労働組合に事務局を持つ「生活関連公共事業推進連絡会議」がさる一月十日、「川辺川ダム事業の漁業権強制収用は国土交通省ならびに小泉内閣の暴挙である」という趣旨の見解を発表したのである。

 ダムは必要か

 歴史を振り返ってみたい。昭和三十五年三月、球磨川上流に多目的ダムとして市房ダムが建設されるが、水害の様相は一変する。短時間に急増水し、減水も早く、身の危険を感ずることがしばしばあった。代表的な災害が昭和四十年七月三日の災害で、地元では「七・三水害」と言っている。そして、まる一年後の昭和四十一年七月三日、治水ダムとして川辺川ダム建設を発表し、二年後の昭和四十三年四月に多目的ダムに変更される。
 人吉市議会では、これらの災害に対応するため昭和四十年八月五日、災害対策特別委員会が設置されるのであるが、ダム建設の要求ではなく、球磨川河川改修工事の早期完成であった。
 関係ご当局のご尽力により、河川の川幅は拡幅され、堤防・特殊堤防の整備、内水排除ポンプ(三カ所)などが完備したので昭和六十年以降、人吉市内の水害はなくなった。
 以上のように河川改修の進捗が、水害防止に大きく寄与しているのと同時に、川を涵養する山の状況の変化も考えねばならない。
 川辺川流域を含む球磨川水系上流部は、総面積の八四%にあたる一四万四九〇〇ヘクタールを山林が占めている。その山林が昭和三十年代、拡大造林の名のもとに、山林の大量伐採植林が行われ裸同然の山となっていたが、川辺川ダムの本体着工を待たずして緑のダムは復活したのである。
 このことは、昨年十月発表した国土交通省の資料「球磨川水系の治水について」にある過去の洪水における雨量と流量の対比の表を見てもわかる。例えば、最大の被害を受けた昭和四十年七月洪水で流域平均二日雨量が三六五ミリで人吉地点ピーク流量が毎秒約五〇〇〇立法メートルであったのに対し、昭和五十七年七月の洪水では流域平均二日雨量が三九五・一ミリで人吉地点ピーク流量が毎秒約五四〇〇立方メートルであり、昭和四十年七月洪水時を毎秒四〇〇立方メートルこえる流量があったにもかかわらず被害はなかった。さらに特殊堤防の突端まで一メートル以上の余裕があったということで立証できるのである。
 全国的に環境問題への関心が高まりダム不要論が出てくると同時に、地方行政への国の締め付けが強まってくる。平成一年七月四日、二市十七町村で川辺川ダム建設促進協議会が設立。関係の議会へも建設促進の意見書が採択されはじまる。
 われわれもこれらに対抗し、平成五年八月八日、人吉市内の青井阿蘇神社において『清流・球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会』を発足した。
 平成十三年十月に国土交通省九州地方整備局川辺川工事事務所が発行した「川辺川ダム建設事業の概要」によれば、平成六年五月相良村村議会で川辺川ダム建設の早期完成に関する意見書が決議されたことにはじまり、六月、九月、十月の各議会で十四カ所の市町村議会で一斉に意見書が決議されたのである。
 われわれは、これらの動きを察知して、平成六年八月三十日「川辺川ダム建設見直し陳情」を市議会に、署名総数四万四千八百四十三名(うち人吉一万二百二十二名)を提出した。最終追加累計は六万千二十一名分を提出。けれど採択されず、賛成十五名、反対七名で「早期完成に関する意見書」は決議されたのである。傍聴席からは、「馬鹿たれ!これを錦の御旗に建設省はダム建設を押し進めてくっとぞ」と大声で叫ぶ者も出るありさまであった。

 誰のためのダム建設か

 建設計画から三十五年、流域住民が真にのぞんだ球磨川河川改修工事も完成し、流域の緑の山も大きく育ち、保安林も役立ち、水害もなくなった今日、われわれはほっとしている時代を迎えたのに、なぜ、行政がダム建設を急ぐのか。誰のためにダムを建設するのか? 大きな声で言いたくなる。このままでは、多くの市民の懸念は払しょくされないまま、川辺川ダムの本体着工が、あたかも人吉市民の総意であるかのように解釈されかねない。
 市民の多くは、母なる球磨川、命育む山の緑の死活にかかわることから、川辺川ダムが人吉球磨の自然破壊、歴史、文化、暮らしだけでなく、子や孫へ伝えていく未来のふるさと像に重大な影響を与える問題であることから、住民(市民)の意思を明らかにするため「人吉市の住民投票を求める会」を平成十三年三月七日設立し、署名運動に取り組むことになった。行政や建設省などの圧力にもめげず、人吉市の有権者の半数をこえる一万六千七百十一名の署名を集約し、平成十三年八月十三日、人吉市選管に提出した。
 九月二十八日開催された臨時市議会では、もともと市長は住民投票に否定的で議員の根まわしもあって、採決の結果、十対十一で条例案は否決された。
 人吉市の住民投票を求める会はじめ、水害体験者の会、手渡す会など川辺川ダムに反対する各種団体は新年集会などを行い、「福永市長の解職請求運動」開始を確認しあった。

(関連記事:2001年4月号「日本一の清流・川辺川を守ろう」重松隆敏氏)

【川辺川ダム】1966(昭和41)年、国が相楽村にダム建設計画を発表。総事業費は2650億円。水没戸数は五木・相楽両村で計528戸。発表から30年後の96年水没する両村と補償交渉が妥結したが、治水やかんがい目的に異議や疑問が続出、ダムの必要性を根本的に見直す声が高まっている。ダム本体工事着工の法的手続きであった漁業補償交渉で球磨川漁協が昨年11月末、国の補償案を否決。国は漁業権などの強制収用を申請。
【過半数が反対】昨年11月の熊本日日新聞の世論調査によると、県内全域では「反対」54%、「賛成」19.4%、その他26.6%。流域の9町村では「反対」59.4%、「賛成」26.6%、その他14%。