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代表世話人からの新年メッセージ

不景気の話

伏見 康治


 新年早々は不景気の話をするのも気が引けるが、近頃の世相を眺めながら私は自分の成人期に出会った不景気のことを思わざるを得ない。
 私の父は、日本におけるベニヤ(合板)事業の創始者ということになっている。私は養子に出されてやがて戻ってきたのだが、丁度旧制の七年制の東京高等学校へ入った年であるが、兄弟達がみんな立派な書棚付き勉強机を与えられていたが、それがすべて合板製であった。相当景気がよかったのではなかろうか。しかしその年の九月に関東大震災、二本榎の岡の上にあった伏見家は瓦が落ちただけで大したことはなかったが、ベニヤ事業の方は大変なことになった。深川にあった南洋産の材木は全部こげてしまい、鎌倉の岸にあった工場兼売店も丸焼けになった。再起不能。父の依存していた銀行は横浜の渡辺銀行と東京にある小会社の中井銀行で父のベニヤ事業再興の資金は得られなかったのであろう、その代わりに日本橋三越の近くにラジオ店を開いた。「今日は晴天なり」の試験放送が続いていた時代、ラジオの方はずぶの素人だが、それを入れる箱の方は得意のベニヤ製品であった。しかしそんなことで商売になるはずはなかった。当時の最先端の仕事に手をつける以上、ラジオの専門家を雇うべきだったのに、合板の場合と同じように素人の勉強でやれると思ったのが間違いだった。父はラジオ店以外に色々な仕事に手を出していたようであるが、私が高等学校を終了する直前に破局がきた。家中の箪笥などの物件に全部赤紙を張られ、家も出なければならなくなった。大学入学の直後のことである(一九三〇)。この最後の打撃がきたのは、一九二七年(昭和二年)の金融恐慌によるもので、父が依存していた渡辺銀行、それに付随して中井銀行が潰れたことによる。更に台湾銀行が潰れ、その処置を誤って、若槻内閣が総辞職、各地で銀行の取付騒ぎが起こっていた。
 そして翌々年(一九三〇年)にはアメリカ株式市場の大暴落、それが日本に波及してきて、産業界では操業短縮が盛んに行われた。新聞には大学生が街で靴磨きをしている写真が出ていたが、当時の大学生は今日の巷にあぶれているのとは違って社会の貴重品であった。
 もちろん昔と今とは違う。銀行が潰れても昔のように取付騒ぎは起こらなくなった。政府が最低の預金払い戻しを保証しているからである。その代わりに政府の借金はふえる一方で、早晩財政が破綻をきたすことは眼に見えている。公債を発行しても誰も買わないことになるだろう。
 三〇年代には満州の開拓という逃げ口があった。あれを軍部の力を借りずに、純経済的に投資を続けられたらどんなによかったであろう。しかしそういう逃げ道も今はない。あるのは科学技術の振興で、無から有を産み出してもらうだけとなった。