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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年7月号
六〇年安保闘争をふりかえって
一九六〇年当時、私は東京交通局でバスの運転手をやっていました。東京交通労働組合(東交)の一組合員でした。安保問題には関心があり、組合としての国会デモの動員には積極的に参加していました。
安保改定阻止の統一行動は一九五九年四月から始まりましたが、当初は労働組合が中心でした。六〇年一月に岸首相が訪米し、アイゼンハワー大統領との間に新安保条約に調印しました。新安保条約は国会での批准が必要で、過半数を占める自民党政府は強引に審議を進めた。これに対し、社会党など野党は国会内で新安保条約の危険性を追及しました。横路節雄、飛鳥田一雄、石橋政嗣など「安保七人の侍」と呼ばれた社会党議員が、「極東の範囲」などを追及しました。四月に入り、国会での議論が本格化し、この頃から連日何万という人たちが国会にデモをするようになったと記憶しています。五月に入り、自民党による強行採決の動きが強まり、労働組合、学生、一般市民による二十万、三十万の国会デモが連日続きました。五月二十日、自民党は衆議院で強行採決。国会周辺に「安保粉砕!」「岸内閣総辞職!」の声がこだましました。さらに六月十五日に国会構内で東大生の樺美智子さんが警察機動隊に圧殺された事件があり、怒りはさらに高まりました。
私は長い間、労働組合運動にかかわってきましたが、振り返ってみてやはり六〇年安保が一番大きな闘争だったと思います。当時は、組合に入って二、三年目で、若くまだ役員でもありませんでした。戦争が終わって、世界に誇れる平和憲法ができたのに、日米安保を認めればアメリカの引き起こす戦争に巻き込まれる危険がある。「安保条約を認めてはいけない」「何としても岸内閣を打倒しなければ」という思いが強くありました。そして、岸内閣を打倒すれば社会主義社会ができると思っていました。
ところが、敵もさるもので、岸退陣のあとに登場した池田勇人が「所得倍増計画」を発表し、多くの国民がそれにつられてしまいました。
印象的に覚えているのは社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼青年に刺殺された事件です。六〇年十月十二日、総選挙に向けて日比谷公会堂で開かれていた三党首演説会での事件でした。事件を聞いて居ても立ってもいられなくて、日比谷公会堂に飛んでいった憶えがあります。
六〇年安保の当時と現在では、野党の状況、労働組合の状況などいろいろな面で違いがあると思います。当時、力をもっていたのは国労や私鉄などストライキで影響力のある交通関係の労働組合です。また賃上げなど労働条件だけでなく、労働組合が世の中を変えようという目標をもっていました。だから長い間、労働運動にかかわってきました。
六〇年安保の時、あれほど大騒ぎになった安保条約における米軍の行動範囲は「極東の範囲」でしたが、一九九六年の日米安保共同宣言や新ガイドライン関連法では、地球上どこでも行けるということになってしまった。安保は拡大され、さらに危険になっています。「つくる会」の教科書は戦前の軍国主義へ向かうもので許せません。労働組合がもっと騒がなければだめだと思います。
六〇年安保闘争の当時も国会では自民党が過半数(現在、自公保が過半数)でした。それでも、六〇年安保の頃は、院外の大衆運動が大きく盛り上がっていた。だから院内で中途半端のことはできないという雰囲気がありました。国会の議席はたとえ多くなくても、労働運動など大衆的な運動を大きく盛り上げられれば政治を変えることができると思います。(文責編集部)