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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年6月号

六〇年安保闘争をふりかえって

日米安保―六〇年と今

元安保改訂阻止国民会議事務局次長 伊藤 茂


 東京のメインストリートがフランスデモでうまった六〇年安保闘争は、歴史的な闘いでした。しかし、世代もかわり、あの頃のことが忘却の彼方になってきました。六〇年安保闘争の統一行動センターにいた者として、安保は遠くなりにけりなのかと、歯がゆく感じています。
 先日、沖縄の仲間が来て、五月十五日夜に沖縄最北の辺戸岬と本土最南端の与論島とでかがり火大会をやった、と話してくれました。沖縄問題を論じても復帰闘争のことを知らない人が多くなった、これでいいのかと、彼も同じ思いでした。
 敗戦直後、戦争はもうごめんだと平和憲法が生まれた。その直後から冷戦になり、冷戦の入り口で日米安保条約ができた。戦後五十五年の歴史は、平和憲法と日米安保体制という二つの軸の葛藤だったとも言えます。六〇年安保闘争はその大きな頂点でした。日米安保で危険な状況が出ている今、あの歴史的な闘いをふりかえることは大切なことだと思います。歴史を忘れては未来の確かな展望を開けないからです。
 あの闘いをふりかえって、なぜあのような闘いができたのか、その安保がいまどうなっているのか、そして、新しい国際・国内環境のもとで平和構想をどうねりあげるか、この三つの柱について考えてみることが必要だろうと思っています。

 大闘争になった条件

 なぜあのような闘いができたのでしょうか。第一に、あの当時は米ソ対決の冷戦時代でしたから、政治の面でも国民的にも日本の進路をめぐる最も中心の軸は平和問題でした。デタントへの可能性が生まれているその時に、なぜあえて軍事同盟を強化するのか。これが主要な論争の一つでした。そういう時代状況が基本にあったと思います。
 第二に、闘いの軸があったということです。当時は社会党・総評の時代で、運動の主軸には常に平和、反安保の問題がおかれていました。今の連合とは全く違う状況がありました。安保改訂阻止国民会議という国民的な統一行動センターがつくられ、全国津々浦々のすべての市町村に安保共闘がありました。まさに広範な国民の連合です。これが大きな要件だったと思います。
 ヨーロッパでは市民型の自発的な運動があるが、日本の場合は労働組合の動員による縦割りの運動になっている。日本に横の運動はあるのだろうか。運動の中で、そんな議論がありました。しかし、六〇年五月十九日、自民党が警官隊を国会に入れて、単独で会期延長、新安保条約可決を強行すると、それ以降、連日のようにデモがつづき、憤激した何万、何十万という人々が国会を包囲しました。まさに市民型の自発的な運動、国民の運動になりました。
 第三に、みんなが大変な努力をしました。例えば安保闘争の中で、みんながビラを書いて学習討論につなげていきましたが、あの時に作ったビラはおそらく数億枚、いや二けたの億単位になると思います。
 はじめは、五九年末の国会突入事件や一月の羽田事件のように先鋭な闘いがある一方で、広範な国民の基盤、すそ野がない不安定な構造でした。これではだめだ、もっと広く国民に訴えなければいかんと、安保共闘は全国三千の市町村を結ぶ行進をやりました。北海道と沖縄から行進を始めて、甲子園の優勝旗のように行った先々の旗をつけ加えて歩く。いたるところで演説し、宣伝を行い、集会を開き、地方議会に請願行動をする。あの行動で国民的なすそ野が広がり、さまざまな労働組合に運動が根づいていきました。そういう情熱的な行動の積み上げの努力がとても大きかったと思います。
 五九年四月に日比谷野音で開いた第一回統一行動は四千人でした。それが最後には三十万人、四十万人になりました。一年余りであそこまでいくとは、誰も思っていませんでした。でも日比谷野音の壇上にいて、何かわーっと燃え上がるような底力を感じたことを覚えています。

 危険な方向に向かう日本

 六〇年安保闘争の時、国会では極東の範囲と事前協議が論争になり、社会党七人の侍が政府を厳しく追及しました。日本を基地にする米軍の行動範囲つまり極東の範囲について、政府の答弁は混乱をきわめ、最後は「フィリピン以北、日本の周辺」で押し切りました。
 しかし今や、政府が答弁したこととはまるで違います。米軍は極東の範囲を超えて、ベトナムや中東・湾岸の戦争に日本から出撃しました。事前協議も行われませんでした。アメリカは沖縄をはじめ日本に最大の海外基地をおき、世界の半分をカバーする自由出撃基地にしています。
 昨年十月にアーミテージ・レポートが出され、ブッシュ政権はその路線で日本に軍事行動分担を要求しています。小泉内閣はこれに応えて、集団的自衛権行使についての解釈の変更や有事立法などを言い始めました。六〇年安保の時にはとても言えなかったことです。当時チェックをかけたことが全部はずされ、どんどん具体化されてきています。
 いま日本は非常に危険な方向に向かっているのに、日米安保に対する国民の反応はにぶくなっています。

 平和の構想力を

 ポスト冷戦になってから十年以上経過し、ヨーロッパもアジアも大きく変わりました。日本を中心とした北東アジアでは、日米安保、米韓安保といった力の発想がまかり通っていますが、これは地球上で最後に残った冷戦の部分です。これを解決すれば、ポスト冷戦後の世界になっていく。そういう意味で、日本は非常に重要な役割を持っています。
 そこで、平和のビジョン、構想力が決定的に重要になります。東アジア平和構想というかアジアの集団的安全保障構想を、単なる願望ではなく現実的なものとしてつくりあげていく努力が非常に大事です。
 安全保障と不可分な経済を見てみますと、九七年の通貨危機があったので一直線ではありませんが、アジア経済はダイナミックに変化しています。中国はいずれ巨大な経済勢力になるでしょう。ASEANでは域内の貿易や投資が拡大しており、アジアの外貨準備高は世界一です。EUのような共同体にはなっていませんが、共生のアジアに向けて大きく変化し、アジア共同経済圏が必ずできるのではないかと思います。
 その中で、日本は威張ったリーダーではなく、威張らずに幹事役として大汗かいて努力する。そうすれば尊敬される道も開けてくる。教科書問題のように、戦争責任をないがしろにすることについては、国民全体で真剣に考える必要があります。

 点から線そして面へ

 そうした構想と同時に、なぜ運動が力強さを持たないのか、真剣に考えてみなければなりません。
 一つは、六〇年安保の時の総評と、今の連合との違いです。連合はそういう政治闘争を放棄し、闘いの軸がまるで違ってしまった。政治の面では、当時主力だった社会党が分解し、大部分は民主党に行き、残った社民党は小さくなった。
 しかし、これではいかんと思っている人たちが、連合傘下の組合にたくさんいます。市民運動あるいは政党人や学者・文化人の中にもたくさんいます。分散しているその力をどうやって結集し、点から線そして面にしていくのか。結集への糸口はあちこちにあると思います。燎原の火のごとく一挙にとはいきませんが、それらをつなぎ、広げ、より力強くしていくことが、当面の非常に重要な課題だろうと思います。
(談・文責編集部)