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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年5月号
四月二十一日、長崎原爆資料館ホールにおいて、昨年に引き続き、長崎・沖縄連帯集会が開かれました。平野伸人実行委員長の開会挨拶につづき、沖縄戦の記録映画「戦場の童」が上映されました。これは一フィート運動によって米軍のフィルムを買い取り、三十分ほどにまとめたものです。戦争でさんざんな目にあった沖縄の反戦の思いとは裏腹に、現在、沖縄には米軍がいすわり、世界各地に派兵できる基地となっていることを映画は糾弾していました。
次に、全国一般長崎連帯支部長船労組委員長・新郷大三郎氏が、長崎の兵器生産の実態について報告しました。「三菱重工長崎造船所は戦前戦後、魚雷製作を独占している。艦船についても、ほぼ独占と言える。一九九〇〜九三年にイージス艦を三隻作った(日本には四隻しかない)。このうち二隻は佐世保に配備されている。次期防(二〇〇一〜〇五年)では、TMD(戦域ミサイル防衛)を発射できるイージス艦を二隻作ることになって予算も通った。おそらく二隻とも長崎造船所で作るだろう。TMDの日米共同開発で、防衛庁から委託されたのも三菱重工」と指摘。また、「兵器製作には直接関係ありませんが佐世保の相浦駐屯所に千人規模のゲリラ対策部隊ができて、今年から入隊がはじまっている。エンタープライズ闘争なみの行動があれば、今度は自衛隊が出てくるだろう」と気になる報告がありました。
休憩をはさんで、前沖縄県教職員組合委員長・石川元平氏の「日米安保条約五十年を考える―二十一世紀の日米関係へ」と題した講演がありました。日米安保条約はどうして結ばれたのか、それが世界の民衆をいかに抑圧したか、日米安保は平和友好条約に改定すべき、というお話でした。今川正美衆議院議員と大田昌秀沖縄前知事のメッセージが紹介された後、集会アピールが採択され、井原東洋一副実行委員長の閉会挨拶で終了しました。
講演
日米安保条約五十年を考える―21世紀の日米関係へ
前沖縄県教職員組合委員長 石川元平
沖縄県民を米軍の人質にして
「独立」した日本
長崎と沖縄は、古くから諸外国との交易で栄えてきたという共通の歴史があります。また去る大戦で、長崎は原爆投下、沖縄は国内初の地上戦という悲惨な体験をし、今はどちらも日米安保条約によって、米軍基地を抱えています。
日米安保条約とサンフランシスコ講和条約は一九五一年九月八日に締結され、五二年四月二十八日に発効しました。講和条約で日本が「独立」したことになっています。しかし、沖縄は米軍の占領支配下におかれ、日本は沖縄県民を米軍の人質にして「独立」したのです。私は「四二八(よつや)会」に入っています。四・二八の屈辱を忘れない、沖縄から基地がなくなるまで生涯かけて頑張るという、現職・退職の教職員の組織です。毎年四月二十八日に集会を開いています。
冒頭に指摘しておきたいことがあります。一つは、一九四五年二月に戦争は終結できたのです。天皇裕仁が七人の重鎮の意見を聞いて判断した。三番目に意見を聞かれた近衛文麿は、到底勝ち目がないと降伏を上奏したが、天皇裕仁は決断しなかった。最近知ったのですが、近衛上奏文の原案をつくったのは吉田茂だったようです。近衛上奏文は、終戦直後の高校の歴史資料にも出ていましたが、後に文部省が削除しました。もし天皇裕仁が四五年二月に決断しておれば、三月二十六日から始まった沖縄戦はなくてすんだ。広島・長崎の原爆投下、全国各地の空襲もなくてすんだ。いま中学歴史教科書が問題になっていますが、そういう歴史的事実は出ていません。
もう一つ。天皇裕仁は四七年九月二十日、GHQに「米軍が二十五〜五十年ないしそれ以上、沖縄を占領し続けることを希望する」というメッセージを送った。すでに平和憲法が施行されており、主権在民で天皇の国事行為は厳密に規定されているのに、天皇裕仁はそれに反する政治行為をやった。そして米軍の沖縄占領が続き、沖縄は唯一、天皇裕仁が足を踏み入れられぬ地となった。一九八七年、沖縄で復帰十五年記念として海邦国体が開催され、西銘県政は天皇裕仁を招請して沖縄の戦後を終わらせようとした。私たちは、そんなことで沖縄の戦後は終わらないと、国体の開催団体に強く抗議した。結局、天皇裕仁は病死し、沖縄に足を踏み入れることはなかった。戦争責任、戦後責任、沖縄の怨みが死期を早めたのかもしれない。
アジア・世界の民衆を抑圧する
日米安保体制
一九七二年の復帰まで二十七年間、米軍は沖縄を軍事占領して、施政権を握り続けた。琉球政府という傀儡政府、立法院、裁判所を置いたが、都合の悪いことは拒否し、生殺与奪の権利を握っていた。そのためにどんなことが起こったのか。アジアおよび世界の民衆を抑圧する日米安保体制だと思います。その中で、基地にかかわる人権、平和、復帰運動等が燃えさかっていくわけです。
一九五〇〜五三年、沖縄は朝鮮侵略戦争の基地となった。昨年五月に大田前知事を団長として朝鮮民主主義人民共和国を訪ねました。あらためて朝鮮の統一を阻害しているのは在日米軍基地だと感じました。
日米安保条約は六〇年に改定され、名称も「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」となり、「相互協力」という言葉が入った。第五条で共同防衛、第六条で基地の提供を定め、軍事同盟に変わった。米軍の軍事行動は極東に限られ、事前協議制がうたわれたが、政府は極東外の軍事行動を黙認した。ベトナムや中東がどうして「極東」と言えるのか。事前協議も「アメリカから申し入れがない」と言って、一度も開いたことはない。
一九六五〜七五年のベトナム侵略戦争で、嘉手納基地から出撃したB52爆撃機が北ベトナムの病院、学校、住宅を爆撃した。沖縄の海兵隊がベトナム中部のダナンに上陸し、ホワイトビーチから弾薬を積んでいた。私たちは嘉手納基地を人間の鎖で包囲し、弾薬庫から嘉手納基地への輸送を阻止する闘いを行った。本土でも社会党・総評やベ平連などのベトナム反戦運動が盛んだった。六八年十一月十九日、爆弾を満載したB52が嘉手納基地で墜落し、爆発・炎上する大事故が発生。B52撤去闘争は六九年二月四日のゼネストへと組織されていきます。復帰闘争はベトナム反戦と結合して高まり、当初は先頭にあった日の丸が、ベトナム反戦の過程で消えていきました。
六八年十一月、米軍が任命していた琉球政府主席の公選制を闘いとり、自分たちで主席を選びました。私たちは教職員会初代会長の屋良朝苗さんを立てて圧勝しました。即時無条件全面返還が最大の争点となり、戦後初の県民規模の投票で県民要求として示されました。
六九年十一月二十一日、佐藤・ニクソン会談で七二年五月の復帰が決まった。この時に、核の秘密合意が行われた。佐藤首相の密使としてキッシンジャーと核密約を交わした若泉敬氏(京都産業大学の国際政治学者)が『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という本にそれを書いている。政府は「核抜き本土並み」と約束をしたが「核抜き」ではなかった。基地も「本土並み」ではなかった。七二年五月の復帰後、本土の米軍基地は六〇%以上返還されたが、沖縄は一五%程度で、逆に本土に点在していた海兵隊基地が沖縄に集中した。全国の面積の〇・六%の沖縄に七五%の米軍基地がある。これが復帰後二十八年の沖縄の現実です。
沖縄は、講和条約の際に米軍の占領支配で裏切られ、復帰の際も「核抜き本土並み」の約束を裏切られた。そして九五年九月、米兵三名による少女暴行事件が起こった。大田知事は米軍用地のための代理署名を拒否し、十月に八万五千人の県民が宜野湾市の海浜公園に集まって「基地の整理縮小」「地位協定の見直し」など四つの要求を日米両政府に突きつけ、日米両政府を震撼させた。さらに九六年九月八日の県民投票は「基地の整理縮小」「地位協定の見直し」が圧倒的多数となった。
しかし、県民は九六年四月の「日米安保共同宣言」=安保再定義で三度目の裏切りにあった。日米安保の範囲は「極東」から「アジア太平洋」に拡大された。国会にもかけられずに日米安保が改定された。民主国家でこんなことが許されていいのか。安保共同宣言に従って、九九年に新ガイドライン関連法が成立した。今さらに進めて、戦争協力法を作ろうとしている。沖縄戦では兵役法の年令に満たない十五、十六歳の若者が鉄血勤皇隊などに駆り出された。十四歳の少年まで軍服を着せられて戦場に駆り立てられた。婦女子も勤労動員などで戦争協力をさせられた。文部科学省の「奉仕活動」は、基地建設など戦争中の「勤労奉仕」を連想させる。沖縄の平和の叫びに対する日米両政府の回答が、新ガイドライン関連法であった。
沖縄から
日米安保がよく見える
中国の軍用機と接触事故を起こしたEP3というアメリカの電子偵察機は、嘉手納基地から飛び立っている。中国のミサイル基地の配備を探るには軍事スパイ衛星で十分だ。EP3を飛ばすねらいは、領空ギリギリの所を飛んで、中国戦闘機の対応を確かめることだったのではないのか。米軍の行動は明らかな挑発行為だと思う。国防総省は、嘉手納のF15に護衛させて偵察活動をするというシナリオも描いている。
一九八九年の米ソ冷戦崩壊は、米軍基地を撤去させて自衛隊も整理縮小し、北方領土なども返還させる好機だった。やりようでは可能だったが、日本政府はやらずに機を逸した。昨年十一月のアーミテージ報告は東アジア十万人体制にふれず、基地の整理縮小への一種の期待感も抱かせたが、ブッシュ政権は強硬姿勢で、新たな冷戦構造を作ろうとしているように見える。日本政府がそれを支えている。日本が独立国の自覚をもってやれば展望が切り開かれるのに、そういう動きが見えない。外務省と談判して感じるのは、対米追随の姿勢です。対米追随で新たな冷戦構造へと踏み込んでいくのではないかと危機感を強くもっています。
安保条約第六条で、アメリカは全国どこにでも米軍基地が置けることになっているが、沖縄に集中している。日米地位協定で定めた事前協議をやったためしがない。米軍はベトナム、中東、ユーゴのどこを空爆しようが全く自由で、沖縄の基地を治外法権的に自由使用している。ベトナムやイラクは、在日米軍基地から出撃した米軍機で爆撃され、民衆が犠牲になったから、日本が「参戦」したと感じている。
一九七八年に始めた「思いやり予算」は、今では年間二千七百億円をこえている。その他に、六千数百億円の税金を米軍基地に投じている。在日米軍基地はハワイやグアムの基地よりも、住宅などの施設がけた外れに豪華で居心地が良い。黒字国アメリカに赤字国日本が「思いやり予算」を出す。なぜそんなことをする必要があるのか。大阪の市民運動が訴訟を起こしたが、高裁は「安保条約にかかわる判断はしない」と棄却した。日米安保条約さえ無視して、こういうことが繰り返された。それが日本を世界のどこからも理解されない腐った国にしてしまった。
沖縄サミットのねらいは何だったのか。招請された中国は、国連をないがしろにして、先進国数カ国で世界を引き回すことに同意しかねる、と断った。よく言ってくれた。嘉手納基地のそばに「安保の見える丘」がある。安保の矛盾がよく見えるということでわれわれが命名し、反戦学習の場所にしている。政府はサミット予算でそこに階段をつけ、駐車場を作り、看板まで立てた。そこに「安保の見える丘」ではなく「安保の丘」と書いた。私はサミットの隠された意図をみる思いがした。日米安保体制を誇示する場として、サミットを利用しようとしたのだ。
沖縄に世界のマスメディア、NGOが集まるサミットに、われわれは知恵を出してあらゆる努力をした。最大の取り組みは、七月二十日の嘉手納基地包囲です。周囲十七・四キロを二万七千人の人間の鎖で包囲した。それが世界中に放映され、どこに行っても「沖縄の民衆はよくやった」「沖縄にはこれほどの米軍基地があるのか」という声が聞かれた。それが、昨年十一月の国際自然保護連合のジュゴンを守れという決議となってあらわれた。
一九九六年十二月に日米特別合同委員会(SACO)の最終報告が出された。メインは普天間基地を海兵隊が集中する北部に移し、辺野古のキャンプ・シュワブで核基地とセットにして新しい空港をつくる。キャンプ・シュワブには核化学生物兵器が貯蔵されている。もう一つは那覇軍港を浦添に移設し、キャンプ・キンザーという東洋一の兵站基地とセットにする。普天間基地も那覇軍港も、半世紀以上たった、耐用年数がすぎた基地です。もっとうがった見方をすると、米軍が撤退した後の日本軍基地を今から作っておくねらいがあるのではないのか。日米安保なら何でも許されるからだ。
県民の闘いによって、嘉手納町、北谷町の町議会は「海兵隊撤退決議」を可決した。沖縄県議会も「海兵隊の削減決議」を可決した。保守県政も海兵隊削減を要求せざるを得なくなっている。大田知事の頃、ハワイもグアムも海兵隊を受け入れると表明した。基地があるかぎり、米軍の事件・事故はあとを絶たない。基地の自由使用、米軍優先の地位協定では、県民の生命、人権、財産は守られない。本土でも先日、原潜が通告なしに佐世保に入港した。国民をそれに慣らし、徴兵制や戦争協力法ができる国にしようとしてるのではないのか。
「国家の安全保障」から
「人間の安全保障」へ
沖縄には歴史的な平和思想がある。一つは「万国津梁」です。首里城正殿の鐘の銘文にあり、世界への架け橋という意味で、どこの国とも仲良くするという意味です。次に「イチヤリバチョーデー」。沖縄の方言で、イチヤリバ=出会えば、チョーデー=兄弟、つまり出会えば兄弟という意味で、数百年の歴史がある。そういう平和思想で琉球王国は栄え、その首里城が世界遺産に登録された。もう一つは「命どう宝」、命こそ宝という意味です。私は日本国憲法の前文や九条に、沖縄的平和思想をみる思いがします。
一九二八年に、パリで「人民の名において」不戦条約が締結された。日本では「人民」という言葉が天皇制の関係で大問題になったが、日本も含めて当時の先進国は戦争放棄のパリ不戦条約を批准した。あいまいさがあったためにそれが守られず、第二次世界大戦が起こったが、重要な条約でした。一九九九年にオランダのハーグで開かれた国際平和会議は、日本国憲法第九条を世界の規範にしようというアピールを採択した。このように戦争放棄の日本国憲法は、世界の先駆けです。
大田県政は「基地のない沖縄」をめざして、「国際都市形成構想」と「基地返還アクションプログラム」を日米両政府に突きつけました。二〇一五年までに基地を全部返してもらい、そこに国際都市をつくって、沖縄を世界の平和の発信地にするという構想です。そこには、平和を願う意思に反して歴史に翻弄されてきたという思いが込められており、自らの運命は自らで決めるという決意の下につくられました。さらに「平和の礎」と「新平和記念資料館」をつくった。資料館は稲嶺県政の改ざんを許さなかった。「沖縄国際平和研究所」は稲嶺県政が反古にしたので、民間で立ち上げました。
そのキーワードは「平和・自立・共生」です。自民党政府の官房長官をつとめた後藤田さんが、昨年十二月の日経新聞や今年三月の朝日新聞で、二十一世紀の日本がどうあるべきか述べています。「まず第一に平和。いかなる場合も武力に訴えてはだめだ。第二に自立。安保条約は見直し、友好平和条約に切り替えるべきだ。第三は共生。世界的にも格差を作ってはならない」。大田県政の「平和・自立・共生」と同じ発想です。自民党政府の指揮をとった方にもこういう方がおられる。だから、安保賛成と言う人でも、ていねいに説明すれば、家族の命やこの国の将来を考えて、こういう考えになってくれる方が必ず出てくると思う。
沖縄にとって、平和憲法が適用されてからまだ二十八年です。その憲法第二十九条で財産権が保障されているのに、米軍用地特措法を再改定、再々改定して、米軍用地のために個人の財産を強奪した。政府はさらに、土地収用法の改悪も提案している。政府は平和憲法の理念に立ち戻るべきです。しかし、政府は「憲法の理想の実現は根本において教育の力にまつべきだ」とうたっている教育基本法を改悪しようとしている。憲法改悪のための人づくりです。だから、侵略されたアジアの民衆が反対しても、「つくる会」の歴史教科書を押し通そうとしているわけです。
日米安保条約は国民の生命財産を脅かし、世界の民衆に対する大きな加害の根拠になっている。そういう条約だということを自覚をすれば、民衆が望んでいるの日米の平和友好なのだから、二十一世紀の早い機会に「平和友好条約」へ改めることができる。日本の外交が「日米基軸」から決別すれば、朝鮮半島情勢も紆余曲折はあっても必ずいい方向に行く。北方領土問題も機は熟しつつある。世界的にみても、新たな冷戦を望んでいる国はない。その意味でまさに機は熟している。われわれが連帯して頑張っていけば、大きな成果を勝ち取れると思う。(文責・編集部)