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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2001年2月号

日本の将来を左右する教科書問題

日本教職員組合教育文化部長  藤川伸治


危険な方向を決めた第一四五国会

 一九九九年の第一四五国会で、国旗・国歌法、ガイドライン関連法、盗聴法、住民基本台帳法改正などが成立しました。
 アメリカがアジア・太平洋地域の紛争に関与した場合、自衛隊がその後方支援をする、そのことがわが国の平和と安定をもたらすというのが政府の説明です。しかし、ガイドライン関連法は、個々の市民が自分の意思とはかかわりなく、戦争や紛争に参加させられていくという体制です。なおかつ、そこに住んでいる住民の安全や生活を保障していく地方自治の原点である自治権を国が侵害することになります。
 また、「日の丸・君が代」については、さまざまな意見があります。また、アジア諸国から大きな懐疑の念が寄せられました。にもかかわらず、十分な審議もせず、政権与党の数の力によって押し切りました。なぜ強行に成立させたのかを考えてみる必要があると思います。
 どう考えても第一四五国会で成立したさまざまな法案は、わが国の今後の行く末を大きく左右することは間違いありません。十、二十年の単位で見ると、第一四五国会で決定された事項は確実に日本がかつてのような道を歩むように方向づけしたことを否定できません。
 一九九六年以降、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」や「新しい歴史教科書をつくる会」の運動などによって、こういう政治を支える一定の世論づくりが行われた。例えば、若者が在日韓国人・朝鮮人の先生に対して、「わが国がかつて行った戦争が果たして侵略戦争だったのか」という質問を投げかけてしまう。日本が朝鮮を植民地支配し、その中で多くの朝鮮人が人権を侵害されたことは歴史的事実です。人間としてその事実を受け止めれば、このような質問が簡単にできるわけがないと思います。若者たちの歴史に対する見方が一定程度影響を受けている。
 ガイドライン関連法でいざ日本が戦争に参加していく状態になったときに、多くの市民は「なぜ公のために自らの命を投げ出す必要があるのか」と考えます。その考え方を変えていくために、「日の丸・君が代」の法制化、そして学校現場での強制が始まっています。

教科書問題

 教科書問題も、そういう流れの中で見る必要があります。いま検定中の「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史と公民の教科書には、非常に国家主義的な表現が多くあります。公民の教科書のコラムは「国民は公のために生命を犠牲にしなければならない場合もある」とあり、非常に危惧を感じます。その前段には自衛隊が活躍していることが書かれている。戦争や紛争のために自らの命を投げ出す必要があることを次代を担う世代に刻み込むことが、この教科書がめざしているものだと強く感じます。例えば、憲法九条については、守るべきという声がある事実は無視して、「憲法改正が強く主張されている」という記述です。
 「つくる会」の教科書では、アジア太平洋戦争を大東亜戦争と呼んでいます。大東亜共栄圏、つまりアジア全域を日本という国に同化させてしまうという考え方によって、アジアへの侵略が行われ、二千万人のアジアの人々の命を犠牲にした。歴史の見方についてはいろいろあっていいと思いますが、事実を書くべきです。次代を担う子どもたちが、かつての歴史から何を教訓として学び、将来に向けてどう生きていくのか、これが歴史教育の重要な部分です。そのためには歴史的事実が記述される必要があります。バランスを欠いた記述に非常に危惧を感じます。
 もし、このような教科書が検定を通るようなことがあれば、どうなるのか。家永教科書裁判など教科書に歴史的事実を記述していこうというこれまでの運動を否定するもので、子どもたちに歴史的事実とは違うことを教えることになります。日本に侵略され、いまなお不信をもっているアジアの多くの国々と人々からみて、この教科書は耐えられるとは思えません。日本という国が一つの国として、この国際社会の中で生きていくことができないと思います。
 二十一世紀の日本は、隣国の人たち、アジアの人たちと協力しなければ生きていけません。かつてのような大東亜共栄圏という意味ではなく、個々の国のアイデンティティを尊重し、お互いの良さを共有しあう、そういう意味でアジアの国々は深い信頼や協力が必要になってくると思います。経済一つとってもそうです。わが国の経済活動という面からみて、このような教科書がどういう影響を与えるのか真剣に考える必要があると思います。唯我独尊、自分だけ良ければいいという考え方は絶対に通用しません。もしこの教科書が検定を通れば、単なる歴史教科書の記述にとどまらず、二十一世紀初頭のわが国の政治・経済・社会に非常に大きな影響を与えると思います。
 テーマは違いますが、インドネシアで起きた「味の素事件」にしても、その国の文化、宗教などに立脚した経済活動をしなければ、経過はどうあれ、あのような事態になってしまう。それぞれの国の文化、宗教、アイデンティティなどを尊重していくことを、私たちは自覚しないとやっていけません。
 「つくる会」の教科書を採択させようという政治的な動きが全国の地方議会で起こっています。地方議員の方々は、日本という国がアジアの中で信頼され、なおかつ現在の経済状況が維持されるためには何がいま必要なのかという観点で、この問題をとらえていただきたい。これから二月、三月議会に向けて、昨年の九月議会や十二月議会で起こったような請願や陳情が広がると思います。地方議会の政治家として、見識と責任ある行動をしていただきたいと思います。教科書問題にとどまらない大きな問題を含んでいますので、多くのみなさんにも関心をもっていただきたい。

教育改革について

 教育改革国民会議の中で、様々な議論がなされて、通常国会では教育関連の法案が出されるようです。いま教育で問われているのは、全体の枠組みをどのように変えるかということではありません。子どもたちが置かれている現状―子どもたちが一人の市民として多くの人たちと連帯しあえない、多くの人たちと深く結びあうことができない―が今の教育問題の根底にあると思います。
 授業で習ったことと自分の人生とどのような関わりがあるのか、あまりにも離れすぎてしまったのではないかと思います。人間というのは、自分と他者との関係において、いろいろな刺激を受けて、体験して成長します。ところが、今の子どもたちの中にはそういうことがないのではないか。
 また、そういう子どもたちの現状を社会がどう見ているか。例えば、事件を犯した少年を厳罰にしてしまえ、という意見があります。確かに被害者感情として否定できません。しかし問題は、なぜ少年が生まれてからわずか十数年間でそういう事に至ってしまったのかです。その子どもの生きてきた歴史、その子どもを取り巻く社会がどうだったのかを、ていねいに見ていく必要があります。それを規則だとか、一方的な規範で子どもたちを縛ろうとしても無理です。人間ですから、一人ではさびしい、自分のことを分かってくれる人がほしい、という気持ちは共通してもっていると思います。ところが子どもが一人の市民として多くの人たち、世代の違う人たちと人間的な関係が結べない、そこに深刻な問題があると思います。
 したがって、枠組みを変えても問題は解決しません。方法論も含めて検討していくべきだと思います。心がけや精神論だけで教育の中身が変わると考えるのは大間違いだと思います。具体的な事実と具体的な取り組み、それを裏付ける多くの人たちの支援、そして財政的な措置。それらがあってはじめて教育は実を結ぶ。それには時間がかかります。
 教育が私たちに突きつけている問題は、日本の社会が一体どうなっているのかを私たちに突きつけている。そのように考えるべきではないかと思います。政権維持のために教育改革を使おうという意図では、問題を深刻にするだけだと思います。
(文責編集部)