自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年7月号
広範な国民連合東京第七回総会記念講演(要旨)
沖縄の心と日本の未来
東京大学名誉教授 隅谷三喜男
私は、日本の人たちの歴史認識に狂いがあるのではないかと心配しています。先日会った歴史家の人は、日本の歴史を考えるときには戦前と戦後しかない、戦後が歴史を考える基本的な場で、それ以前は戦前に一括される、戦中も戦前に含まれる、と言っていました。歴史を教えている先生がそう考えているのです。
沖縄を考えるときには戦中のことが重要になりますし、戦前というと、日本は第二次世界大戦前まではアメリカと戦争していません。若い世代は、アメリカと戦争した歴史を学んでいるのでしょうか。大学生でも、日本がアメリカと戦争したことを知らない人たちが少なくありません。若い世代にとって、沖縄と言えば観光地です。日本はいまアメリカと親しくしていますから、歴史を学ばなければ、アメリカと戦争していたなんて考えられないのです。
今日の沖縄で最大の問題は米軍基地問題、とりわけ普天間飛行場の移転問題です。七月には沖縄で先進国首脳会議が開かれるということで新聞などが大きく報道していますが、本土の国民は沖縄の米軍基地について、必ずしも十分な認識をもっていません。あらためて、私たちにとって沖縄とはいかなるところか、一緒に考えてみたいと思います。
悲惨な沖縄戦
日本は一九四一年から第二次世界大戦に突入しました。日本全土がアメリカ軍による空襲を受けましたが、アメリカ軍との地上戦が行われたのは沖縄だけでした。
その地上戦は非常な激戦で、日本兵の戦死者は九万人、攻めてきたアメリカ兵の戦死者は一万二千人といわれています。もっと悲惨なことは、当時の沖縄の人口は五十万人と言われていましたが、十五万人の一般住民が戦争のために死んだことです。沖縄はそれだけ大きな犠牲、被害を負わせられました。
沖縄戦で亡くなった方の中で最も悲惨なのは集団自殺(自決)です。アメリカ軍が攻めてきて、いよいよだめとなったら、集団自殺をせよと軍から命令され、そのための爆弾を配給されました。集団自殺は非常に悲劇的なことですが、もっと悲劇的なことがありました。
私が親しくしている友人は離島で沖縄戦を体験しました。
アメリカ軍が攻めてきて、いよいよだめということになり、全員集合せよと命令された。ところが集団自殺のための爆弾が不良品で爆発しない。しかし、集団自殺は軍の命令だ。当時、中学生だった私の友人は、刃物で母親を殺さざるをえなかった。母親を殺し妹たちを殺した上で、自分も死ぬつもりだった。しかし、母親を殺したあとで自分は死ねず、放浪し、最後は捕虜になった。
彼は母親を殺してしまったことを、長い間語ることができませんでした。自分の心に秘めた悲しい悲惨な出来事でした。彼はその後、キリスト教徒になり、神学校に入って牧師になり、最後は学校の先生になりました。いまから二十年くらい前、母親を殺したことをこれ以上秘密にしておけないと、どんな状況の中でどのように母親を殺したかを書きました。私はそれを読んで非常にショックでした。
このように悲惨な体験をしたのは彼一人ではありません。沖縄には、苦しくて人には言えない戦争体験をした人たちがたくさんいます。
講和条約で見捨てられた沖縄
日本の歴史教育では、戦後の沖縄についても教えていません。高校生や大学生でも、戦後の沖縄がどうなったのか知らない人たちが多いと思います。
戦後、日本はアメリカ軍の占領地になりました。そして、一九五二年の講和条約によって日本は独立国となりました。沖縄はその講和条約によって、アメリカの委任統治領、つまり植民地になりました。
私より少し年下で、沖縄からアメリカに留学した知人がいます。彼は「自分は無国籍者だ」と言っていました。「日本から見捨てられたので日本国民ではない。日本国籍もない。アメリカは委任統治だからアメリカ国民でもない。だから自分は無国籍者だ」と。ですから、彼は自分たちを見捨てた日本に対して非常に批判的でした。その後、大学の先生になり、アメリカ国籍を取ってアメリカ人になりました。
講和条約と同時に、日米安保条約が締結されました。当時は朝鮮戦争のさなかで、アメリカにとってソ連は強力な敵であり、中国も敵でした。日本は対ソ、対中の前線基地という役割を与えられました。日本は軍隊を持たない、戦争を放棄するという平和憲法をもっていましたが、沖縄だけはアメリカが統治していましたから、沖縄にたくさんの軍事基地をつくりました。ソ連との緊張関係が強くなるにつれて、日本は自衛隊をもち、沖縄の基地は強化され、核兵器も貯蔵されるようになりました。
やがてベトナム戦争が起こりました。ベトナムは元はフランスの植民地でした。そのベトナムで共産圏の北ベトナムが力をつけてきたので、アメリカがベトナムに軍隊を派遣し、ベトナム戦争が起こりました。しかし、アメリカ軍は負けて、ベトナムから撤退せざるをえなくなりました。ベトナム戦争はアメリカの歴史にとって屈辱の歴史でした。
アメリカがソ連、中国、北朝鮮、ベトナムと対抗する中で、沖縄はアジアにおけるアメリカの最大の軍事基地という役割を担わされました。
沖縄に集中する米軍基地
そういう中で沖縄では、アメリカ軍の支配から離れたい、日本に復帰したいという復帰運動が非常に活発になりました。日本国内の運動も活発になりました。そして一九七二年五月、沖縄は日本に復帰しました。わずか二十八年前のことです。
日本の若い人たちは、沖縄が七二年にようやく日本に返還されたこと、それまではアメリカが沖縄を支配していたことを、必ずしも知らないのではないでしょうか。沖縄はずっと日本の一部だったという意識だと思います。
沖縄が日本に復帰するときに、大きな問題が二つありました。
沖縄の人たちは、日本に復帰することは日本国民になることであると同時に、平和憲法の日本に復帰することだから、攻撃的な基地は撤去してもらって平和な社会になることだと考えました。ところが、現実は大きく違いました。沖縄が日本に復帰しても、アメリカ軍の軍事施設はごく一部を除いて占領下のままでした。軍事基地はあいかわらず、物理的にも精神的にも、沖縄の人たちの大きな重荷でした。
もう一つの問題は核の問題です。日本政府は「核兵器は作らない、持ち込みを許さない、保持しない」という非核三原則を国是としています。ところが、復帰の時の秘密協定が近年明らかになりました。復帰後も核兵器貯蔵庫はそのままです。沖縄には核兵器があるのではないのか。日本に寄港するアメリカ艦船に核兵器が搭載されているのではないのか。その可能性が高いけれど、実際には検証しようがありません。日本政府が「アメリカ政府が核を積んでいると言わないから、積んでいない」という態度だからです。
日本本土の米軍基地は、講和条約を締結した後、だんだんに縮小されましたが、沖縄の米軍基地は日本復帰後も広範に維持されました。その結果、日本にある米軍基地の七五%が沖縄に集中するという状況になりました。沖縄本島の二〇%が米軍基地で占められています。しかも、普天間飛行場や嘉手納飛行場など米軍基地は、沖縄本島の中南部、沖縄でもっとも人口が集中している地域に集中しています。
アメリカ軍は地上だけでなく、日本の飛行機が勝手に飛べない空域をもっています。首都圏では横須賀、厚木、横田の基地を含む空域、日本海側では新潟を中心にした空域です。沖縄では沖縄本島を中心に非常に広い空域をもっており、沖縄の空のほとんど全部がアメリカ軍の空域です。
変容する沖縄の軍事的役割
十年前にソ連が崩壊しました。それを契機に東欧の共産主義体制も崩壊しました。中国は基本的には共産主義体制を放棄していませんが、社会主義市場経済で中国経済を発展させようとして、世界経済と関係をもつため、アメリカと友好関係を築いてきました。ベトナムも経済を再建するために、アメリカと手を結ぼうということになっています。
わずかに残っているのは北朝鮮です。日本は北朝鮮のミサイルで大騒ぎしましたが、北朝鮮の目標は日本ではなくアメリカです。ミサイル開発が続けば、いざというとき、アメリカはミサイルを撃ち込まれます。アメリカはそれを恐れて、話し合いで北朝鮮にミサイル開発や核開発を断念させるため、食糧支援やその他の技術援助を行うという柔軟な姿勢で対応しています。
冷戦時代は目の前の共産圏に対抗するために、沖縄はアジアにおけるアメリカの最大の軍事基地という役割を担わされました。しかし、目の前の敵がいなくなってきました。アジアに敵対関係がなくなれば、沖縄の軍事的役割はもう終わった、ということになるはずです。
ところが、二十世紀末に情報技術が急速に発展し、軍事技術も発展しました。アメリカ軍は前線基地を中東の近くに置かなくても、いざとなれば太平洋からでも出動できます。つまり、沖縄の米軍基地は、アメリカにとって最も駐留経費の負担が少ない上に、アジアはもちろん中東も視野に入れることができるようになったわけです。だからアメリカはフィリピンの基地を手放しました。韓国のアメリカ軍もいくらかは削減してもよいと考えているのではないかと思います。そのかわり、沖縄の米軍基地を東アジアだけでなく中東まで支配権をもつような、中心的な基地にしようとしています。だから、名護に新しい基地をつくり、沖縄の基地機能を以前よりも強化しようとしているのだと思います。
沖縄の願い―問われる本土
沖縄の人たちはアメリカの軍事基地からの解放を非常に強く熱望しています。これに対して、日本政府は何か問題が起こるたびに、振興策などと言って沖縄に対して多少の待遇をして問題をそらしてきました。
沖縄の知識人や問題を深刻に考えている人たちは、そういうわずかなお金で買収されるようなことがあってはだめだ、と主張してきました。沖縄の問題をもっと根本的に考えてほしい、そのために沖縄の自主権、政治的にいえば沖縄の自治権をもっと認めてほしいと熱望しています。沖縄は沖縄自体で問題と正面から取り組んでいくというものです。
沖縄の自治は、経済の面ではどういう姿をとるでしょうか。この点について、沖縄の人たちの中には、沖縄が独自に生きる道として、ある種の自由貿易構想を展開できないかという声がすでにあります。
沖縄は日本から見ると南の端ですが、沖縄から見ると南に台湾、フィリピン、インドネシア、北に日本本土、そして西に中国という大きな世界があり、沖縄は東アジア・西太平洋の中心に位置しています。だから、沖縄をある種の自由貿易地帯とし、東アジア・西太平洋における自由貿易の中心地としての役割を果たしていくという構想です。これを政治的に裏付けるために、沖縄の自治権を拡大し、もっと強固にしてもらいたいと考えているのだと思います。
私は二年前に、沖縄について本を書きました。歴史的にも現在においても、私たちが沖縄に対して負っている債務というか借りのようなものが、非常に大きいことを痛感しました。本土の人たちは、沖縄の歴史と現状をきちんとおさえた上で、沖縄の人たちの願いにどう応えるのか、問われていると思います。
(文責編集部)