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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年7月号
建設省の計画したダム建設を断り
自立の村づくりに励む徳島県・木頭村
食とみどり、水を守る秋田県労農市民会議 高橋良蔵
ダムによって栄えた村はない
木頭村の藤田恵村長は「ダムによって栄えた村はない」「過疎の村にダムが来る、ダムの村は過疎になる」と地元のダム問題を全国に向かって情報を発信し、ダムなど必要ないと訴え続けている。木頭村は村の九八%が山林で、標高千メートルを超える山丘が二十四個もある急傾斜地の多い村だった。わずかばかりの棚田では八百世帯、二千人の村人が食する飯米すら自給ではない山村であった。
それだから千百億円もの巨費を投資する建設省計画のダム建設で、土木工事など働く仕事が保障されて、村全体が潤うはずだ。こんなおいしい事業は、どこの自治体でも旗を揚げて歓迎運動を繰り広げるところだが、木頭村は違っていた。村役場の玄関に「細川内ダム絶対反対」の長さ十メートル以上の垂れ幕をさげて村長と村民が団結して闘っていた。
建設省のダム計画に反対し、お上の言うことを聞かない木頭村は、国、県からの予算や補助金配分に不当な締め付けを受け、苦しめられていた。村長は著書『村長奮戦記』の中で訴えている。徳島県発注工事の町村別業者受注額を見ると、ダム建設反対の姿勢を明らかに打ち出した九三年の翌年から、木頭村での公共事業が急に減り始めたと藤田村長は言っている。それでも藤田村長は国や県の圧力に屈服しなかった。「ダムに頼らない木頭村、自立の道を探る」意志はますます強まっていった。
藤田村長は明けて九六年四月、私費で北米のダム視察に飛んだ。そして、日本がダム建設のお手本にしてきたアメリカ内務省開墾局総裁を訪ね、一九九四年宣言、つまり「米国ではダム建設の時代は終わった」に代表されるように、ダムによらない水政策が世界の潮流であることを知り、ダム計画に反対する一層の確信を深めて帰国した。
木頭村藤田村長と会う
吉野川堰の自然を守る住民運動の皆さんを訪ねる前に、藤田村長の著作『村長奮戦記』を読んで、同じ徳島県内である木頭村の現地を視たいと関心が沸いてきた。図書館で地図を調べたら徳島県木頭村は高知県との県境で、徳島市内から百キロ以上も離れた山里で、鉄道の便もなく、バスも途中までしか走っていない。これでは一人旅の私の足では、木頭村を訪ねるのは無理だと諦めることにしていた。幸いなことに、吉野川堰住民投票の会のメンバーで、徳島市議会議員の大谷明澄さんが、親切にも木頭村を案内してくれることになった。
大谷市議の運転する乗用車は五月九日午前九時に徳島市を出発した。途中吉野川に次ぐ清流で知られる那賀川橋を渡り、百キロ先の木頭村を目指して国道一九五号線を走った。徳島の街ゆく人は、ほとんどが半袖姿でした。車窓から眺める沿道の風景は、みどり濃い初夏で、秋田と比べると一ヶ月以上もすすんで気温は二十五度、まさに南国でした。もみじ川温泉のある相生町に入った頃から道幅も狭くなり、曲がりくねりが多く、川口ダム、長安口ダム、小見野々ダムなど幾つものダムを通り過ぎると、急な坂道になり、車の運転は減速に切り替えることもあった。「緑と清流は村の宝」とする木頭村役場にたどり着いたのはお昼近かった。
「大きな象と闘う、小さなアリの奮闘」と社会評価が高まり、全国的に多忙を極めている藤田村長は、大谷市議の計らいもあり、村長室で待っていてくれた。中肉中背でガッチリした健康そうな体格。鋭い目を細めながら話す一つひとつにぐいぐいと引きつけられ、魅力あふれる人だった。ああ、この人なら大きな象と闘える頼もしい知恵者だ。私はそんな第一印象をもった。
藤田村長の著書『村長奮闘記』を読んで私はいくつかの問いを準備した。
・ダムに頼らない村づくり。
・ミネラルウォーター、湧き水のこと。
・村会議員十名のこと。
・ギンナン 栽培、ゆず栽培、清流の川魚のこと。
・千百億円のダム計画誘惑書(?)を蹴飛ばした理由。
・洪水が起きたら誰が責任をとる。
・野坂浩賢建設大臣に陳情とは。
・ダムなしの村づくり地域振興計画書資料。
・木頭村の緑と清流を守る環境基本条例。
面識もない私のような無名の客に、時間をとってくれるとはありがたいことだ。口べたな秋田弁で、私は必死になって一時間近く面談し、資料を頂くことができた。
その中に「棚田を転換して『ゆず』を十四ヘクタール作付けし総売上四億円」と聞いた。山里の傾斜地に『ゆず』を作付けし、特産物まで仕上げた実績に敬意を述べたら、村長は「村の農家が総力をあげて四億円、村の建設業七社は四倍強の十七億円だよ」と言われた。
ゼネコン依存の体質から脱却
昭和五十一年、木頭村を襲った台風一七号は杉苗密植、高地傾斜地の植林など戦後の無理な造林計画もたたって大きな被害を受けた。ところが、この災害で木頭村は激甚災害の指定区になった。どこでもそうであるように、災害復旧の特需という土木工事がどんどん増え続け、村人が雇用され賃金をもらい、村は大いに潤い活気づいていた。安い外材輸入によって林業が下り坂となり始めた時だけに、激甚災害の指定、復旧事業の土木作業は林業従事者を一気に吸収して砂防ダム、堰堤工事などに、山仕事の賃金より数段高い労賃で次々と雇用するようになり、土木工事様々となっていった。
林業の木頭村は、昭和五十一年の台風を境に、林業で働き林業を語る人がいなくなり、代わって土木建設業が村の中心産業となっていった。藤田村長の頭の中では、そのことが村全体が公共土木工事に依存する「体質変化」を起こしたと考えるようになった。「これではいけない。ダムに頼らない村づくり」「ダムの村は過疎になる」「ダム工事はその時ばかりだ」と、ダムに依存しない山村のあり方に弁をふるう藤田村長さんでした。
吉野川可動堰反対の住民たちは、千百億円の工事費は「無駄遣い」だと訴えていた。巨額の公共投資を、ほかに必要な地域振興費に向けたらどれだけ有効に役立つか。住民側はこれだけの予算があれば何ができるか実例を示し、千百億円反対の理由を論じていた。
四千五百万円の防雪柵
私の住む羽後町貝沢は百二十戸、五百人が住む農業の集落だ。外からの出入り口道路は三つある。その一つ、通学路は村はずれから落ち水が流れる堰に沿って五キロ離れた小学校に通う。晴れた日の西空には、秀峰鳥海山が姿を現し、広々とした田園とマッチして、羽後町三景に選ばれそうな美しい風景がある。一月、二月は降雪の季節。積雪の多い当地、吹雪に襲われ車が動けなくなることも何年かに一、二回ある。貝沢の学童は、この雪道を通学に往復すること百年の歴史がある。
平成十一年暮、この町道西側に鉄骨資材の防雪柵が建設された。高さ三・七五メートル、長さ四百四十一メートル、総工費四千五百万円、どんな豪雪で吹雪の時も除雪車が走り、足止めを食らうことはまずなくなった。春になると雪は消えてなくなる。それなのに、防雪設備にいとも簡単に四千五百万円が投資された。ところが、四メートル近い高さの鉄骨囲いに遮られ、西空も鳥海の美山風景もまったく見えなくなった。防雪柵四千五百万円工事は、誰のためのものだったのか。もし、百二十ヘクタールの耕地をもつ貝沢の農業に四千五百万円を投資したら、大豆作の集団化、機械化、コスト低減の米作り、新しい営農が生まれることも可能な金額ではないか。無駄金使いと疑問を投げかけるのは一部の人で、行政も住民もよいことをやったと納得しているようだ。
阪神大震災復興十兆円のゆくえ
平成七年一月、震度七の地震が阪神・淡路を襲った。被災総額十兆円強と公表された。阪神大震災は十兆円という復興特需を生んだ。道路も橋も高層建築物も震災から五年、見事によみがえった。平成十一年、行政では「復興宣言」を出した。
しかし、復興事業費十兆円は地元の懐を素通りして、県外大手ゼネコンが大半を持ち去った。今となって地元の不満がいたるところで爆発していた。話によると、なにしろ震災当日大手ゼネコンの株価は急上昇した。あるゼネコンはそれから数日後、倍に値上がりしたというから、大震災の不運が十兆円という復興特需を生みだし、ゼネコンを景気付けたことになる。
神戸市内にある下請け建設会社は震災復興の仕事が増えるといわれ、五億円もの借金をして必要な機材を購入し、仕事を待ったが来なかった。借金して求めた機材は不要になり、売りに出したが三分の一でしか売れず、不渡りを出し倒産した。復興に沸く神戸で地元企業の倒産が相次ぎ、平成十年兵庫県で二百七十二件と激増した。それもそのはず、震災の年、兵庫県内の公共事業費は約二兆円で、前年の倍に膨れ上がった。ところが、膨れ上がった八四%は大手ゼネコンで、しかも大手が使った下請けの多くは県外業者で、地元業者は採用されなかった。その実態が地元日刊紙にも掲載され不満が爆発していた。
三千百億円の市営空港計画に
反対する住民運動
兵庫県の県庁所在地は、人口百五十万人をかかえる神戸市。震災復興工事が終わった今、三千百億円という莫大な建設費を投じて、市営空港建設に向かって港を埋め立てる工事が始まった。
震災復興費十兆円が地元神戸を素通りして大手ゼネコンに流れ、痛い目にあったばかりの市民は、三千億円の空港建設計画に疑問を感じてきた。当初、神戸市議会議員七十二名のうち空港反対派議員は一名であった。ところが、その後の選挙で反対派議員は二十三名に急進した。市長選挙でも、推進派の現役市長は二十七万票に対して、反対派候補は二十二万五千票まで迫った。さらに反対・疑問を抱く住民勢力は増え続け、「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例」の制定を求める署名活動は、わずかの期間で三十一万、有権者の二七%にあたる署名が集まった。推進役の先頭を走る現役市長が獲得した票を四万も上回るものであった。
神戸空港計画に対する反対・疑問は三つあった。
一、神戸市財政が危機的な状況に あるのに、なぜこんな大事業に 取り組むのか。
二、近くに関西空港、伊丹空港が あるのに、無理を重ねて建設す る必要があるのか。
三、三千百億円もの巨費をかけて も、採算性や需要予測がずさん で信用できない。無駄金使いは ごめんだと訴えていた。
吉野川堰、木頭村ダム返上、神戸市営空港反対、いずれも共通の疑問提起であった。