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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年7月号
 

コラム・日米安保体制を拒否する沖縄の心

遠藤京子(出版社「オーロラ自由アトリエ」主宰)


 一九七二年、沖縄返還に日本人として反対を表明する隊列の中に、私はいた。その数年前から友人たちは代わる代わる沖縄へ行き、中には沖縄の学生として「返還粉砕」を闘いたいと、琉球大学へ入学してしまう者もいた。彼らから「絶対に復帰前に行っておけ」と何度も言われながらも、しかし私は、地元での闘いを中断して沖縄で何をするのかと粋がって行かずにいた。いまは、パスポートを携えて沖縄を訪ねることを一度は体験しておくべきだったかもしれないとも思う。そんなわけで、初めて沖縄の地を踏んだのは一九九四年の暮れだった。
 私が編集・発行する季刊総合雑誌『批判精神』は、九九年三月の創刊以来、これまで「日韓新時代の欺瞞」「脳死・臓器移植を拒否する」「核は廃絶するしかない」「いよいよ歴史教育が危ない」などの特集を組んできた。七月上旬に出る第五号の特集は「沖縄が解放されるとき」である。
 一九七一年十月、衆議院本会議場傍聴席で沖縄の青年労働者三名が、返還協定に反対して爆竹を鳴らし「なぜ自分たちは日本人にならなければならないのか」「日本は我々の祖国ではない」「全ての沖縄人は団結して決起せよ」とアピールした。当時、アメリカの新たな世界戦略は、日米安保体制の強化の一環として、沖縄を「返還」して再編支配しようしていた。同盟国である日本もまた、それに見合うように政治的・経済的・社会的再編がなされていった。
 それはしかし、労働者にとっては、さらなる労働強化と生活の破壊を招くものであった。今日のような荒廃した社会は、生まれるべくして生まれたと言えるだろう。そのような状況を拒否しようと共に闘った「沖縄返還粉砕」の隊列にいる沖縄の労働者は、私にとって眩しいような存在だった。
 この五月、特集の企画で沖縄へ赴き、摩文仁の丘の新しい平和資料館へも足を運んだ。改竄(かいざん)が問題となったジオラマより、かつての皇民化政策の資料に、私はいっそう衝撃を覚えた。
 いくつもの「沖縄処分」によって一方的に日本とされてきた沖縄。沖縄の象徴といわれる「守礼の門」が、あろうことか「源氏物語絵巻」とともに二千円札にデザインされる。これまで幾重にも張りめぐらされてきた日本への同化政策も、ここまできたかと思わざるを得ない。
 那覇では国会での「行動隊三戦士」(活動総括)の一人にお話をうかがうことができた。私と同年齢の彼の言葉には、あの時代を真摯に闘った者に共通する響きがある。彼らは、三十年という歳月を節目に、後続する世代への継承と自らの今後の展開とを併せた見地から、これまでの闘いを総括する作業を始めていた。私もまた、最近、同じようなことを考えているところである。