自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年4月号
広範な国民連合さいたま第3回総会記念講演(要旨)
21世紀の沖縄はどうなるのか
求められている統一戦線の構築
元沖縄県副知事 吉元 政矩
日米政府にとっての沖縄
敗戦から55年経ち、6月23日には20世紀最後の慰霊祭が摩文仁の丘で開かれます。
米軍が沖縄本島へ上陸した1945年4月1日以後、日本守備隊司令官が割腹自殺した6月23日まで、苛酷な地上戦が続きました。組織的戦闘行為が終わった6月23日が、慰霊の日です。
沖縄は本土防衛の捨て石にされただけではありません。当時、敗戦後も天皇制を継続できるかどうかをめぐり、連合国との駆け引きが行われていました。沖縄戦が間近に迫った45年2月、これ以上犠牲を出さぬため戦争終結を提言した首相に対し、天皇はもう少し戦果を上げてからと発言しました。その発言が沖縄のその後を決めました。
7年後の52年4月28日、講和条約で日本は独立し、主権を回復しました。しかし、その第3条で沖縄は日本から切り離され、アメリカの軍事支配下に置かれました。日本の独立と引きかえに、沖縄は再び捨て石にされたのです。
それから20年、沖縄には日本国憲法が適用されず、冷戦下で本格的な軍事基地が構築されました。アメリカ民政府は沖縄県民というのを嫌い、琉球人という形が強化された時代でした。だから、県民運動が最大の課題にしたのは、平和憲法のもとに帰ることでした。
しかし、72年に復帰した時、平和憲法は無惨にも私たちが夢に描いたのとは違いました。9条にもかかわらず、自衛隊があり日米安保がありました。さらに、沖縄は本土とは違う扱いを受けました。復帰時に関東の米軍は60%削減され、その海兵隊が沖縄に移ってきました。同じ憲法を適用されながら、沖縄の米軍基地は縮小ではなく強化されました。これが本土復帰だったのです。
復帰前も復帰後も、沖縄は一国二制度で取り扱われました。日本という国は、沖縄を特別な地域だと考え、米軍基地、日米安保を沖縄に押し込んでいます。
世紀末の日本の姿
大田知事が誕生した1990年11月は、冷戦崩壊の時でした。国と国との戦争はなくなりましたが、地域紛争が鋭い形で出てきました。
コソボ問題はその最たるもので、民族浄化を理由にユーゴが空爆されました。米国防省はその後、何10万人と言われた犠牲者は実は約2000人で、デモと警察の衝突によるものと発表しました。新聞に出たのは小さな記事でした。私たちはアメリカから流される情報でコントロールされていました。93〜94年に流された、北朝鮮が南に攻めて来る、米軍が軍事作戦を計画という情報は、本当だったのでしょうか。
西日本新聞は、2発のミサイルと小さな船で日本国民全体は「右向け右」となった、と書いています。一つは96年3月に中国が台湾海峡に打ちこんだミサイルです。一つは北朝鮮のテポドンで、各国が人工衛星の失敗と言う中で、日本だけが軍事用ミサイルと主張しました。小さな船は不審船のことです。こうした情報で国民の意識が作られました。
これを背景に、96年4月の日米首脳会談で日米安保の再定義が行われ、新ガイドラインができました。そして、周辺事態法、盗聴法、住民基本台帳法の改正、国旗・国歌法、憲法調査会の設置です。去年の通常国会で一挙にやられました。「右向け右」の次は「一歩前へ」、教育基本法の見直し、有事法制、憲法改悪です。自民党政権が崩れ、連立政権が次々と移り変わる中で、21世紀の日本をどうするかを射程に政党再編が仕組まれ、周辺事態法がすっと通る国会状況になったのです。
海兵隊司令官が米軍基地は日本の暴走をおさえる「瓶のふた」だと発言したように、米軍基地は日本を守るためではありません。周辺事態法はその米軍の軍事行動を日本全体で支援することを決めました。世紀末の日本は、北朝鮮と中国を危険な国とみなし、日米軍事同盟の新たな展開に踏み出したのです。その精神的な面が日の丸・君が代であり、憲法改悪は最後の仕上げです。自自公政権はアジアの国々に、危険なメッセージを発しました。
基地との共生を拒否した沖縄
1990年11月に当選した大田知事が年明け早々に直面したのが、米軍用地強制収用の問題でした。その時は、国が地主補償などで特別の仕組みを作ると約束したので代理署名しました。それから4年後の95年4月、大田知事は代理署名拒否を決断し、私はそのメッセージを官邸や政党に伝えました。その直後の9月4日、少女暴行事件を起こりました。子供の人権さえ守れないのか。私たちは県民大会を開き、村山総理に基地問題の解決を迫りました。
基地のない沖縄を作るのは、県民との約束です。米軍基地との共生を拒否する沖縄を作るため、沖縄県は平和・共生・自立の理念を県民に示し、95年1月に21世紀の沖縄のグランドデザインを作りました。国際都市形成構想、基地返還アクションプログラム、そして3つ目は経済振興特別措置で、沖縄全体を自由貿易地域、一国二制度的な仕組みにすることを計画しました。
その際に問題となったのは安全保障問題、朝鮮半島と台湾の問題でした。朝鮮半島は2000年に、平和的な話し合いが軌道にのると予測しました。今、米朝協議などが進展しています。台湾問題も戦争は想定できません。中国に台湾資本が相当入っており、江沢民とクリントンが相互に訪問して経済制裁も解除されました。見通しに大きな違いはないと見ています。沖縄のグランドデザインは、世界の動きを十分に検討し、米軍基地をゼロにする現実的シナリオとして書かれたものです。
しかし、2年前の知事選で大田が敗北しました。表向きは相手側の県政不況と高失業率の宣伝ですが、実際は日米両政府による大田つぶしです。大田知事が名護への移設を拒否すると、政府は知事との話し合いをすべて止め、公明党を引き込みました。あらゆる手段を使った、政府の大田つぶしが真相です。
沖縄は1968年の初の公選主席選挙で、屋良主席を誕生させました。その時に大事だったのは、県民を網羅した復帰運動とともに、統一戦線を作ったことです。自民党一党に対して、革新は社会党、社会大衆党、人民党の三つで競合したため、小選挙区の立法院議員選挙では圧倒的に負けていました。そこで沖縄県労協が三つの政党をまとめて統一戦線を作り、主席選挙と同時に行われる立法院議員選挙の小選挙区も候補者を一人にしぼりました。その力で主席選挙は圧勝しました。
しかし、復帰後は政党も労働組合も中央の政党や単産に系列化されて、統一戦線がしだいに緩んできました。それでも沖縄問題は社会党、総評に持ち込み、全国的な運動が展開されました。沖縄では統一集会や選挙共闘でそれなりの成果をあげてきました。大田選挙でも、社会、社大、共産、公明の4党が反自民でまとまっていました。ところが2年前の選挙で公明党が離れました。自民党は次の総選挙で、公明党現職議員の選挙区で候補者を立てず、公明党議員を守る約束をしたのです。
自民党は国会でも過半数を取るため、公明党に手をつけました。国会で周辺事態法などが一挙に通ったのは、公明党との連立政権という流れができていたからです。
保守県政―基地との共生か
沖縄県民が米軍基地にノーと結論を出したにもかかわらず、軍民共用飛行場、米軍使用15年の条件をつけて、稲嶺が当選しました。
沖縄県から反対の声が出ている間は、国全体も沖縄に目を向けましたが、政府の言いなりの知事になったので目を向けなくなりました。周辺事態法によって、アメリカは日本全国の港湾、空港、病院を自由に使えるから、沖縄だけが特殊ではないという言い方がされてきます。沖縄問題は、米軍基地が多いから負担を軽くすること、悪質な犯罪などを可能な限り止めることであり、米軍基地を認めるか認めないかという問題ではないとなりつつあります。
しかし、本土並に基地が減ればいいという問題ではないし、基地があれば犯罪や事故は必ず起こります。県民が求めているのは米軍基地のない沖縄です。米軍基地をなくさなければ県民は納得しないでしょう。
その稲嶺県政が最初に手がけたのが、大田県政が作り上げた平和記念資料館の展示の改ざんでした。例えば、住民と日本軍が同じ穴に避難している場面で、日本兵が持っていた銃や、乳飲み子の前にあった青酸カリ入りのミルクを取り払いました。日本軍が泣きやまない乳飲み子を母親に殺させることが、沖縄戦で日常茶飯事に起きていました。沖縄戦の実相を改ざんする作業が、県三役の指示で行われていました。
県知事や三役は当初、指示していない、職員が勝手にやった、と言い逃れをしましたが、最終的に事実を認めました。南京大虐殺はウソなどと、歴史の事実をねじまげる動きが出ている中で、沖縄では知事自ら同じことを行っていたのです。
稲嶺県政のもとで7月21〜23日、沖縄でサミットが開かれます。クリントンは昨年、自分が沖縄に行く前に基地問題はおさめてほしいと言い、今年は「沖縄で日米関係が戦略的見地からも重要だということを示すよい機会」と発言しました。サミットの目的は何なのか、県民が疑問に思うようになりました。
運動の再構築、統一戦線へ
沖縄戦の実相を改ざんする県知事の姿勢、サミットに対する県民の懸念は、運動を再構築する良い機会です。サミットには世界中からマスコミが3000人以上集まります。サミット会場から山一つ越えた東海岸は基地移設でもめる辺野古地域であり、南に行くと嘉手納基地です。この際、各国の首脳や世界中のマスコミに全部知らせようと、いろんな団体が行動を準備しています。
稲嶺知事はクリントン発言を聞き、「逆に私たちは、全世界、特に日本国民に対し、沖縄が米軍基地を過重負担していることを考えてもらうよう、この機会に強く訴えたい」と述べました。知事は基地を減らす要求はしないようですが、私たちはこの言葉通りに行動します。7月22日に嘉手納基地を包囲し、全世界に沖縄から平和をアピールします。
沖縄の問題は一時的な、沖縄だけの課題ではなく、日本全体の課題です。沖縄へ行って闘うだけでなく、自分が住んでいる地域や依拠している場でどういう活動をするのかを考えてほしい。2010年には憲法が変えられるところまで来ており、手をこまぬいて見ているわけにはいきません。日常的に行動を掘り起こすために沖縄を見てほしいし、沖縄から学ぶものがあれば学んでほしい。国政の中で勢力を増やし、一緒に政治を変えたいと思います。
沖縄では琉球政府主席や沖縄県知事を勝ち取るために、政党を共闘関係に結集してきました。今度の総選挙で、せめて一ブロックでも一選挙区でもよいから、反小渕政権で統一候補を実現できないものでしょうか。当面は当選できなくても、地域で反自自公の力が集まり、次の参院選で勝利する力になります。
沖縄県議会は今、社民党が議長ですが、公明党が自民党の方へ行ったため、革新側は過半数の勢力を持っていません。6月11日に県議選がありますが、中央による系列化の流れの中で、過半数を取れそうにありません。そして12月には那覇市長選があります。革新が30年間守ってきた那覇市長も、公明党と自民党の統一候補で揺さぶられており、県議選にも影響が出始めています。来年の浦添市長選、参議院選も同じ構図になるでしょう。こういう状況で、2年後に知事選が来ます。
日本の政治がここまできて、さらに憲法改悪が近づいているのです。私たちが責任を果たそうとするならば、わが党は、わが団体はといったセクト的な発想ではなく、政治的な統一戦線を構築しなければならないと思います。
(文責・編集部)