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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』1999年11月号
 

訪朝調査報告

戦争被害者に早急な公式謝罪と補償を

愛知県朝鮮人強制連行真相調査団団長、広範な国民連合愛知代表世話人 寺尾 光身 


一、訪朝の背景

 前大戦中、おびただしい数の朝鮮人・中国人が日本に強制連行され苛酷な労働に従事させられました。その跡は日本全国に残されています。愛知県朝鮮人強制連行真相調査団は朝鮮人と日本人が協力して愛知県下での朝鮮人強制連行の実態調査を行ってきており、これまでの調査結果は「朝鮮人強制連行調査の記録 中部・東海編(一九九七年、柏書房)」の中にまとめられています。名古屋市の三菱重工岩塚工場に強制連行されていた金曽凡(キム・ジュンボン)さんの証言ビデオが昨年平壌(ピョンヤン)から送られてきたのを機会に、直接金さんから証言を聞くこと、中島飛行機半田製作所(愛知県)における強制連行者および空爆による死亡者の遺族との会見、そして昨年朝鮮東海岸北部の清津(チョンジン)で、朝鮮半島では初めて発見された従軍慰安所の建物の実地調査、を目的に、今夏七月中旬、平壌を訪問しました。
 一行は調査団顧問の金鐘石(キム・ジョンソク)さん、団員でフォトジャーナリストの伊藤孝司(たかし)さんと私の三人でした。受け入れ側は朝鮮対外文化連絡協会(以下「対文協」と略す)で、調査活動のお膳立て、通訳と車の提供、市内や近郊の視察まで、きめこまかくお世話下さいました。結果的には、証言を聞く予定だった金曽凡さん(七五才)が直前の五月に病に倒れたため面会できず、また半田製作所関係者との会見も対文協の努力にもかかわらず関係者探しが間に合わず実現できませんでした。しかし伊藤さんが清津におもむき従軍慰安所の実地調査を行うことができ、また、平壌では三人の強制連行体験者と二人の元従軍慰安婦の方々から証言を直接伺うことができました。

二、従軍慰安所

 朝鮮半島ではこれまで日本軍の従軍慰安所であった建物は見つかっていませんでした。ところが、昨年朝鮮の労働新聞に歴史学者金徳鎬(キム・ドッコ)博士(人民大学習堂)が清津で従軍慰安所を発見したことを報告し、それを知った伊藤さんが対文協に実地調査の要請を何度も行った結果、今回許可されました。平壌では金徳鎬博士と、発見のきっかけを作った申楽天(シン・ラッチョン)博士(海州医学大学)からお話を伺い、翌日伊藤さんが金、申両博士と共に現地に向かいました。
 平壌から清津まで寝台列車で約三〇時間、清津から車で更に約二時間三〇分、現地は清津市の北端、むしろ北隣りの羅津(ラジン)市の町の方が近い芳津(パンジン)と呼ばれる辺鄙な所とのことでした。羅津一帯には日本海軍の基地が置かれ、日本兵の為に銀月楼と豊海楼と呼ばれた慰安所が設けられ、その建物が今も残っていたのでした。実は申博士(六八才)がこのすぐ近所で生まれ育ったのが、この大発見につながったのでした。
 間取りは変えられていたとは言え、建物の柱の構造は残っており、それぞれの慰安婦が巾一・八メートル、長さ二・六メートルほどの狭い部屋をあてがわれていたことがわかりました。当時と変わらない広さの部屋も一部屋残っていました。銀月楼には一五〜二〇人の、豊海楼には約二五人の朝鮮人従軍慰安婦が、日本兵の相手をさせられていたのでした。また、慰安婦達の性病検診を行った建物も残っていました。
 さらに、豊海楼に今住んでいる南亀憲(ナム・グヒョン)さん(七七才)が、当時耐えきれず逃亡したが捕まり拷問を受け殺され捨てられていた慰安婦南春子(日本名)の遺体を共同墓地に密かに埋葬した崩れかかった粗末な墓が今も残っています。
 これらは、日本軍が組織的に朝鮮女性の人権を踏みにじったことを示す直接的な証拠となるものです。詳細は伊藤さんの報告(フライデー九月三日号、週刊金曜日九月一〇日号、一七日号)をご覧下さい。

三、 被害者の証言

 強制連行体験証言者の一人金世国(キム・セグッ)さん(七三才)は一九四〇年小学校を出たばかりの一三才の時、担任の先生に日本に技術を学びに行けと言われ、和歌山県の海軍軍需物資である麻ロープの製造工場に連れて行かれました。一平方メートルに一人という過密な宿舎に入れられ、朝八時から夜一一時まで一五時間働かされました。同郷のシンザという女の子は監督の鞭から逃れようとして苛性ソーダの釜に落ち、引き上げられた時には骨が露出して死んでいました。金さん自身Vベルトに左の腕を巻き込まれけがをしましたが、治療してくれなかったため今でも腕が直角以上には曲がりません。一年四ヶ月の間に一四人の少年が、飢え、病気、けがで死にました。葬式代も出してくれませんでした。一九四二年八月に新義州にできた工場に移され、更に四五年四月応召され、奉天で対戦車壕を掘らされました。日本の敗戦でやっと解放され故郷に戻ることができました。
 従軍慰安婦にされた李桂月(リ・ゲウォル)さん(七七才)の体験は更に悲惨なものでした。李さんは一九三七年一六才旅館の女中奉公をしている時に、ハルビンを経由して民家の一軒もない日本軍の駐屯地に連れて行かれました。天皇陛下の命令に背けば殺すと脅迫され、日曜日には朝九時から夜一二時まで兵隊達の相手をさせられました。反抗すれば仮借ない暴力が加えられました。同郷の少女イップニは銃剣で突き殺され、李さんもあばら骨を右二本と左一本折られましたし、眉間には銃剣の傷跡が今も残っています。ある将校は煙草の火を李さんの身体に押し付け、その煙草がおいしいと言って何本も押し付けては吸ったといいます。その火傷の跡は今でも残っています。永子という慰安婦は病気にかかり奉仕を拒否したため軍刀で腹を裂かれ、内臓を引き出されて殺されました。また逃亡に失敗した慰安婦五人は裸で縄で縛られ、慰安婦全員の目の前でマンホールの中に蹴落とされました。水の上に頭が浮いてくると日本兵が丸太で殴りつけ、殺してしまいました。そこに来てから二年後に李さんは何とか逃げ出すことができました。

四、公式謝罪と補償を

 証言の報告はこれにとどめますが、当然ながら証言者はどなたも、日本が公式に謝罪し、補償することを強く望んでおられました。被害者達は皆七〇才から八〇才を越える高齢者であり、事は急がなければなりません。公式謝罪と補償は被害者にとってどうしても必要であるばかりでなく、実は、過去に犯した明らかな過ちを謝りもせず頬かむりしてしまうような最低の国家の不名誉な国民から脱して自らの尊厳を取り戻す為に、私達日本人自身にも必要なことなのだと思います。
 なお証言のテープ起こしも終わり詳細な報告書が間もなく完成します。購入希望の方は私までお申し越しください。

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