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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』1999年8月号
いまなぜ「日の丸」「君が代」なのか
元解放同盟中央本部書記長、前衆議院議員 小森龍邦
「日の丸」「君が代」の法制化が、にわかに政治の舞台に登場してきたのは、どういう本質的意味を持っているであろうか。
日本資本主義が、戦後ケインズ的手法によって、一応の拡大再生産をつづけてきた。しかも、アジア各国の生産力の脆弱性と貧困をよいことに、企業進出、工場移転の名による経済侵略を行ってきた。このことによって、日本国民の経済生活は、大企業の経済的肥大化にはくらぶべきもないが、「所得倍増」とか「資産倍増」とかの言葉におどらされるような状況の展開となった。
それは究極において、海外における企業利権を軍事力で守ろうとする支配階級の衝動を誘う状況となる。カンボジア問題を理由に、さらに湾岸戦争を盾にとって、自衛隊の海外派遣を強行しだしたのは、そのような理由によるものである。ついに「新ガイドライン」関連法となるに至った。旧社会党の崩壊はそれへの抵抗力を失うことになり、自民、社民、さきがけはそれを事実の間題としては、促進する役割を果たした。いまの自自公は、それをさらに継承発展させるコースとして、認識すべきものである。
「盗聴法」とか「国民総背番号制」とかは、これらのことに抵抗する力を失わせようとする市民的権利剥奪ということで、主体的力量を弱めようとするたくらみである。この市民的権利の剥奪と深く相関性をもつものに、労働基本権の侵奪がある。日本資本主義の姑息な延命策でしかないリストラによって市場原理、自由競争主義の謳歌のために、労働基本権を侵奪しているわけである。
こう見てくると支配階級は、勤労国民を欺瞞することにおいて、きわめて体系的にとりくんでいることがわかるであろう。「60兆」円の金融システムを守るという政策は、その裏でリストラを奨励していることによっても、いかに欺瞞策が手のこんだものであるかがわかるであろう。宮沢蔵相の財政、金融政策はかくの如きものである。一国の宰相をつとめたものを再び蔵相に起用するという支配階級の切羽つまった気持と、宮沢のなりふりかまわぬ姿勢に、彼らの世界における階級的利害第一主義をうかがい知ることが出来るであろう。
さて、問題は、「日の丸」「君が代」の問題である。総じてもって、国民総体をマインドコントロールしようとしてきたのである。そういう意味ではオウムの麻原が、信者の諸君のマインドコントロールをあらゆる手を使ってやり通したことと、その手法は同じであるということが出来る。「日の丸」はかつての侵略主義をごまかしたままにしようとする意図が明白である。
ときの政権とか、政権政党とかというものが、それをやるときは、くらべものにならない程、勤労国民の受ける被害は大きい。あの非人道的事件としての「サリン散布」は多くの人を殺した。許すべきことではない。だが、小渕、宮沢の財政政策によって、自殺者が、これまでよりも、経済を理由に自殺した数は数1000人も増えている。「サリン散布」の数100倍の合法的殺人事件と評したら言いすぎであろうか。
こんな暴挙をやっているとき、支配階級にとって、最も大事なことは、マインドコントロールによる支配階級に対する従順な精神的態度を持つ国民を作るということである。
「君が代」の「君」は「象徴天皇」であると彼らは答弁する。「象徴天皇」は世襲身分である。民主主義の国において国民を象徴していると言うのであろうか。数100年の長い間、世襲身分として、被差別の境遇にあったものに対して、いったい政府はどう考えているのであろうか。そして、尋ねてみたいのは「象徴天皇」及びそれに縁故のある皇室の面々はどう考えているのであろうか。先代の裕仁天皇が国内外の幾1000万の民衆を戦争犠牲者にしてしまったことをどう考えているのであろうか。一般の民衆なら、自分の父親がしたことに対しても、被害者の家族や、善意の第三者にたいしては「すまない」という気持ちを表し、行動もまたそのようにふるまう。
だから、「君が代」を謳歌している連中には皇室に対するこのような発言をしてでもわからせるという方法も考えなければなるまい。
いまの日本の支配階級は、「象徴天皇」を利用して、自分たちの利益を守ろうとしているに過ぎない。その意味では、かつて尾崎行雄が「玉座を障壁とし、詔勅を弾丸として」政権維持を桂内閣はねらっていると衆議院で演説したことが、歴史の教訓としてよみがえる。
文部省にしても、広島県教委にしても、日本国憲法に「象徴天皇」というのがあるのだから、「君が代」の歌詞は「主権在民」憲法精神に反するものではないと強弁する。しかし、さきにも言ったように、第1に世襲身分が、どうして、民主主義なのか。第2に女性差別の天皇制がどうして、人間平等なのかを問いつめてみなければならない。支配階級には理屈はない。ただ、われわれの側が少し親切に教えてやる必要があろう。
それは憲法の第1章に天皇という地位があり、「国民の総意」で、その地位がみとめられているということになっている。これには「国体堅持」という皇国史観が敗戦時、清算出来ていなかったことと、マッカーサー司令部が、ソ連に対して「戦争放棄」の条文と取引して、占領政策の便宜上、天皇制を残したという歴史のカラクリを踏まえて立論しなければならない。
天皇制とか、諸外国にみられる王政というようなものは、歴史の一通過点のようなものである。かつてアメリカに奴隷制が合法化されていたことが、歴史の通過点として存在していたのと同様である。人類の歴史が合理性を求めて前進すれば、こんなものがいつまでもつづくように、入学式や卒業式で強制的に歌わせるということは、日本という国の歴史に大きな汚点を残すことになる。
そして、支配階級の面々に、もう少し教えてやらなければならないことは、第一章の「象徴天皇」と、第三章の「国民の権利及び義務」のところで、具体的に衝突しそうなときはどうするかということである。
(1)良心の自由、(2)法の下の平等、(3)男女の本質的平等、(4)思想・信条の自由などなどである。
広島県における高校長の自殺事件は、たかが「学習指導要領」如きものに、「職務命令」を出して、強行してきた県教委のファッショ的手法で、こんなことになったのである。しかも、卒業式の前日の朝、その地区の高校長会の幹部とあいはかって県教委の幹部が圧力をかけにわざわざ、校長宅に出かけて行ったという事実がある。
参議院予算委員会における自民党反動派の戦略は、それを最大限に薄め、かわって、高教組や解放同盟の反対運動を印象づけようと欺瞞きわまりない態度に出ている。(4)思想・信条の自由という憲法精神をあげたのは、反対の意思表明のないところに民主主義は存在しないからである。
宮沢の如きは解放同盟は「リンチ」を日常行っているとデマをとばす愚劣なことを国会で言っている。憲法の象徴と人権にかかわる条項が衝突するとき、どちらが「人類普遍の原理」であるのかを考えて、軍配をあげるべきだと主張しておきたい。