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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』1999年2月号
日中平和友好条約締結20周年記念フォーラム
21世紀のアジアを展望して―日中両国の果たす役割
元インド大使 野田 英二郎
日中平和友好条約締結20周年の昨年12月、中国対外文化交流協会常務副会長の劉徳有氏の来日を歓迎し、「21世紀のアジアを展望して―日中両国の果たす役割」と題する取り組みが各地で開催された(本誌の前号)。福岡での日中フォーラムで問題提起をされた野田英二郎氏の発言要旨を掲載します。(編集部)
江沢民主席の訪日
11月25日から同30日まで中国の江沢民国家主席が日本を訪れました。2000年の日中関係の中で初めての中国の国家元首の訪日、しかも日中平和友好条約20周年ということで、非常に大事な節目だっと思います。その結果、「平和と発展のための友好協力パートナーシップに関する日中共同宣言」や21世紀に向けて日中両国が協力する33項目がうたわれた「共同プレス発表」が発表されました。
今回の訪日が、一言でいえば非常に有意義な訪問であったことは、江沢民主席離日に際しての天皇陛下あての感謝の電報が『日中関係の正反両面の歴史的経験を回顧し、総括して、その基礎の上に、21世紀に向けて平和と発展のために友好協力パートナーシップを構築することについて共通の認識に達した』と要約しているとおりです。上記の「共同宣言」は、1972年の「日中共同声明」と78年の「日中平和友好条約」に次ぐ、「第3の重要文書」として位置付けられました。
しかし、いろいろと新聞に報道されたとおり、中国側と日本側との間の事前のすりあわせ、準備がうまくいったとは言えず、訪問が成功であったとはいえません。そうなった背景としては、歴史認識と台湾問題があります。首脳会談が行われる前から中国側からいろいろ指摘がありましたし、私どもも心配していました。「日中共同声明」と「日中平和友好条約」で確認されている歴史認識の問題と台湾問題は中国側の立場からいえば、両国関係の根幹なのですが、日本政府あるいは日本国民の側では、理解が不十分あるいは誤っていた面があったため、成功とはいえない状況になったといえましょう。
歴史認識と台湾の問題
歴史認識問題は侵略戦争の責任をどう考えるかです。日本中の大多数の都市がアメリカの爆撃機に焼かれ、広島と長崎に原爆が落とされたということで、終戦の時の日本国民は戦争の被害者という気持が強くて、それ以前多年にわたって中国大陸あるいはアジア各地において加害者であったという意識がともすれば薄れていました。
しかも戦後の日本とアジア諸国との関係は、朝鮮戦争や中国の内戦もあり、日本はかなり長期にわたり、アジア諸国のことをあまり考えないで、もっぱら対米関係を重視して経済復興に専念しました。そういうことが歴史認識という問題意識を希薄にしたのではないかと思います。
1972年の「日中共同声明」では「日本が過去の戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことに責任を痛感し、深く反省する」と明確に述べて中国と国交回復をしましたが、侵略戦争について謝罪するという点については、はっきり表明してはいませんでした。
もう一つは台湾の問題です。台湾については、「日中共同声明」と「日中平和友好条約」において、中国はひとつであり、台湾は中国の一部であるとの中国の立場を日本としても十分理解し尊重する、と明確になっております。しかし、日米関係を外交の基軸にする日本政府は、この点について一貫してあいまいにしてきました。共同声明と平和友好条約は、日米安保条約の後にできたものです。したがって中国との国交を正常化した段階で、当時の園田外務大臣は、台湾の問題は日米安保の適用から外れると、国会で答弁されています。台湾問題の新しい位置づけという整理を日本政府は怠ってきたのが実態です。この矛盾が、1996年4月の「日米安保共同宣言」で露呈したといえます。
歴史認識の問題と台湾問題に対するあいまいさが、中国側の不信感の背景にあります。また日本の閣僚のいろいろな発言、また東条英機を賛美する映画『プライド』が作られたことも不信感につながっています。
また、この問題と関連して、日本では、これからの中国や韓国などアジアとの関係は未来志向で考えようとしきりに強調されます。これは、いままでのことは済んだ、先のことを考えればいいではないか、過去のことにあまりこだわらないでもらいたいという気持があると解されます。橋本前首相が訪中される前の慶応大学での講演の中にも「共同声明と平和友好条約は歴史的使命を終わっている。これからは未来志向だ」という文言がありました。
そういう経緯があって、今回の日中首脳会談で、ぎくしゃくした雰囲気になったことは否定できません。しかも江沢民訪日の直前に実施された韓国の金大中大統領の訪日に際しては、お詫びをきちんと文書に書いたのに、中国に対しては文書にはしませんでした。お詫びの気持ちは口頭だけにすると、日本政府の指導者が決めてしまいました。このマイナスは非常に大きかったと思います。お詫びという言葉を文書に書いて、日本が失うものがあったのでしょうか。失うものは何もなかったのです。きちんと書けば信頼されたと思います。それをしないで、日本の立場を通したと胸を張るだけの理由があるのか、私には理解できません。明らかに日本政府は判断を誤ったのです。
明治以来の対外政策
いずれにしても、何か問題がすっきりせずに、次の世紀に持ち越されたという意味では非常に残念な結果になったと思います。いろいろと考える必要があります。
昭和6年(1931年)の「満州事変」以後の中国に対する15年戦争という侵略戦争について考えなければならないのは当然です。しかし、中国東北地方に対する軍事的行動が突然起こったわけではなくて、日露戦争や日清戦争にさかのぼるわけです。さらに言えば、明治以来の日本の朝鮮半島、中国大陸との関わりの全体を考え直す必要もあると思います。北京の抗日戦争記念館では、明治7年(1874年)の「台湾征伐」にまでさかのぼっています。日本は、明治以来、アジア大陸に軍事力による政治的な地歩を占めて、それによって安全保障を守るという考え方を持ち続けてきたのだと思います。
外務省の中庭には条約改正などをやった陸奥宗光の銅像が建っていて、外務省の最も尊敬すべき先輩と書いてあります。しかし、陸奥は、明治政府の軍事力にたよりすぎた外交の象徴ともいえます。一方、幕末の外交家でもあった勝海舟は、日清戦争にも反対でした。勝海舟の「氷川清話」には、自分は日清戦争には反対だったと書いてあります。海外派兵は決して軽率にやるべきでない、戦争はより大きな問題を発生させるだけであると。勝は明治政府には仕えませんでしたし、意見は通りませんでしたが、日本外交は勝海舟までさかのぼる必要があると言われている外務省の先輩がおられます。
江沢民主席が早稲田大学で講演したときに、早稲田の奥島総長が歓迎の言葉を述べられました。その中で、早稲田大学の創立者の大隈重信は、中国に21ヶ条条約をつきつけた責任者だと、早稲田大学の創立者である大隈重信の批判を言われました。21ヶ条条約に対する自己批判が大隈講堂でなされたことは大きな意義があったと思います。
いずれにせよ、日本は明治までさかのぼって、対外関係を考え直すべきではないかと思います。
戦後の日本外交
戦後の日本外交の中で対米関係、特に日米安保が中心的地位を占めてきて、今日でもそうであるのが実態だと思います。1960年に改定される以前の旧安保条約の条文には、日本の要請によって米軍が日本に暫時駐留していると書かれています。60年の改定でその条文はなくなりましたが、米軍の駐留という状況は変らずに今日まで及んでいます。アメリカのアジア政策の影響力がいまでも極めて強く続き、これが日本の国際関係のあり方を束縛しているといえます。
総理大臣も外務大臣も、外交演説で必ず日米安保は日本外交の基軸であると繰り返しています。米軍の駐留が世界第2位の経済大国になった今日も当たり前のように続いています。このことを誰も不思議に思わないという状態がいまだに続いています。どだい平時において外国の軍隊が駐留するということは正常なことではありません。とくに首都の近くにこれだけたくさんの外国軍隊が駐留しているというのは、かつての東欧諸国にソ連軍がたくさんいたときの状況に似ています。私は旧チェコスロバキアの首都プラハに在勤しましたので、首都の南北を旧ソ連軍ががっちりと固めていたのを知っています。
しかも冷戦が終わり、多極化にむかっている世界です。日米安保の必要性もどんどん低下している時に、しきりに、しかも過度に、北朝鮮と台湾海峡の危機やら「中国の脅威」やらが強調されています。そして、日米安保を強めるような「日米安保共同宣言」が出され、ガイドラインという形で具体化されつつあります。冷静に考えると、日米安保は、米国にとっては、日本を抑えておくと同時に、中国を抑えておくという二重の抑止の一石二鳥の効果をもっていると考えざるをえません。
アメリカとの友好関係はもちろん大事ですが、それとバランスをとる意味でも、江沢民訪日は日中関係を考え直す機会でした。そのチャンスを逸したのではないかと思います。
諸外国による対日不信の背景
江沢民主席は早稲田大学の講演で「日本に再び軍国主義が復活してはならない」と言われました。「日本で軍国主義が復活するのは杞憂に過ぎない」と朝日新聞も書きました。多くの日本人は、日本に軍国主義が復活することはない、江沢民さんの発言は誇張ではないかと思っているようです。
もちろん今日の日本は1930年代のような軍国主義になるという社会体制ではありません。しかし、日本は他の国からなぜ警戒心をもって見られるのか。それは日本人の文化的特性の中に、外国から見て不信感を持たれる要因があって、それが軍国主義という言葉で出てくるのではないかと私は以前から考えています。
理由をいくつか挙げてみます。一つ目は、日本は島国ですから、歴史的にみると、どうしても海外の人々との接触の機会が少なく、外国人の立場に立って物を考えるということが不得手です。相手の立場に立って考え、その上で日本がどうするかと考えるようなことが不得手です。自分の国の基準や考え方だけで相手を見てしまう傾向が強いのです。
二つ目は、日本人は(国内で日本人同士の間でも、外国人に対しても)意見の違う人と冷静に感情的にならずに議論することが下手です。また、意見の多様性を許す寛容さに乏しく、一方に風が吹きますと、みんなそちらに流れる傾向があります。私は退官前の3年半、インドにいましたが、インドを尊敬しています。インドには公用語だけでも14もあります。民族も言葉も宗教も違うという人たちがたくさん住んでいますから、お互いの意見がまったく一緒だということはあまりないのです。相手の意見と自分の意見が違うことをはっきりさせるために議論している。意見が違うことは当然だという寛容な知的な風土があります。
日本人の場合、意見が同じ時は発言するが、意見が違う人同士が意見を述べ合うと感情的になりがちなので、むしろ発言しないで黙ってしまう傾向があります。「和をもって尊しとなす」で、一つの雰囲気ができると、それ以上考えたり、異論を唱えるようなことはしません。国論、国の世論がまとまりやすい国なんです。ですから外国から見て、いつまた日本がどっちにいくか分からないという不信感を他の国が持つのも当然かも知れません。
三番目に、日本人は感情的、感覚的な面があり、何かあるとすぐに感情的に反発はしますが、物事を深く理論的に考えず、また複数の選択肢を検討するよりも、これ以外にないと突っ走ってしまう傾向があります。そういう傾向が、いろんな外交問題が起こったときの日本の反応に出てきています。
例えば、北朝鮮の問題が出てくると、感情的にけしからんということなっています。日本がかつて支配したことがあり、至近の距離にある隣国でもあるにもかかわらず、対話のチャンネルを日本政府がもっていないとすれば、今日の国際社会でまことに恥ずかしいことと思わなければなりません。北朝鮮がどういう状況にあって、指導者が何を考えているかについての事実の把握、情報もありません。いわんやそれに基づく判断もありません。他の国からの情報をもとに大変だと大騒ぎをする。日本が感情的に一つの判断に押し流され、過剰反応を続けている間に、他の国はほかのことを考えています。気が付いてみると日本だけが梯子を外されているということがよくあります。
インドの核実験に対する日本政府の反応も過剰です。いまだに日本政府は、インドが核実験をやめると言わなければ関係改善はしないと非常にかたくなな態度を取っています。インドの人に言わせると、広島や長崎に原爆投下がされたのだから日本の気持ちは何度も言わなくても分かっている。また核実験の問題をすべての問題にからめて経済協力も止めてしまっているのは、まことに過剰反応で行き過ぎではないかと批判しています。
アジアの中で信頼される日本に
21世紀のアジアの中で日本は信頼される国として生きていく必要があります。平和で共生できるアジアを展望する上で、日中両国の平和友好関係はきわめて重要です。今回の江沢民主席の訪日については、われわれが深刻に自己批判しなければならないことがいろいろあります。雨降って地固まる、という言葉があります。本当に雨降って地固まるようにするには、先ほど申しました歴史認識や台湾問題を十分考え直す契機にすべきです。
また、「共同プレス発表」にある33項目にわたる両国が合意した二国間の協力項目を実行に移し、二国間の相互信頼、相互協力関係を深める必要があります。国交正常化の時に比べれば、日中間の貿易は飛躍的に拡大しています。人の往来も盛んになりました。さらに環境問題での協力、エネルギー問題、農業食糧問題、洪水対策、砂漠化防止の植林等々を具体的に進めていく必要があると思います。日本と中国の間の相互依存関係を強めていくことが日本の安全保障にとって、最も必要なことだろう思います。
私がお手伝いをしています日中友好会館は、政府の委託を受けて、平和友好交流計画を実施しております。日本から都道府県の教育長などの訪中団をすでに4回派遣しております。中国各地の高校や中学へ行ったり、抗日記念館など歴史の勉強をやっております。同時に中国からは教育関係者の訪日団が3回が来られました。こういうことは地味な仕事ですが、意味のあることだと思い努力しております。また友好会館の寮には常時220人くらいの中国の留学生や研究家が宿泊しています。
かつて中曽根さんと胡耀邦さんの合意で中国からたくさんの人を招いたわけですが、今回はさらに拡大した青少年交流が企画されています。こういう交流は重要だと思います。また、すでに180をこえる友好都市など自治体同士の交流もますます強めていただきたいと思います。
紆余曲折もありましたが、今後とも国民的な努力をしながら日中両国の相互信頼を深めていくことが両国の利益だと考えます。それにより、21世紀のアジアでの両国の役割も建設的なものになるでしょう。