沖縄県生まれ。青山学院大学中退。1968年11月、初の琉球政府行政主席の公選で屋良朝苗革新県政を誕生せしめた中心人物のひとり。県原水協理事長をつとめるかたわら革新共闘会議や人権協会、教育振興会などの事務局長を兼ねる。大学中退後、高校教師をはじめ、主席秘書、新聞記者などをつとめるが、本土への渡航に際し米軍がパスポート発行を拒否したのに反発し、「沖縄問題」に取り組み、米軍による土地の強制収用に反対する闘争や人権獲得闘争にかかわる。1960年4月に発足した沖縄県祖国復帰協議会の役員も兼ね、復帰運動をリードした。72年の復帰後も一貫して教育・平和運動面で活躍している。90年沖縄県教職員組合委員長―1990年発行の『朝日人物事典』より―。現在、沖縄人権協会理事長、1フィート運動副代表などを兼務している。