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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2007年9月号

第五回全国地方議員交流会記念講演

基地を抱える地方自治体と国の政策

宜野湾市長
 伊波 洋一氏

 

 全国地方議員交流会という重要な場で、本市が抱えています基地問題と米軍再編問題をお話できることはいい機会だと思っております。

占領の過程でつくられた米軍基地

 沖縄は一九四五年の戦争で米軍が占領する過程の中で基地ができました。当時の日本軍は、米軍を迎え撃つため六カ所の飛行場を作っていましたが、米軍が四五年四月に上陸し占領しました。占領した米軍は本土攻撃に備えて新たに八カ所の飛行場を建設し、十四カ所飛行場ができました。これが今日の米軍基地につながっています。宜野湾市の普天間飛行場は、米軍が四五年六月頃から作り始め九月頃に完成します。ここから、大阪などへ爆撃に行っています。 米軍は沖縄を占領後、住民が住んでいた民有地を強制接収し、住家、墓、宜野湾では村役場、小学校等を全部破壊して基地を作りました。いま嘉手納や普天間飛行場に関して、爆音裁判が行われております。その裁判で被告の国は「危険への接近」という理屈を展開しています。つまり、住民が米軍基地の危険を承知で、近くに住んでいるという理屈です。しかし、住民が住んでいた土地を強制的に取り上げて基地を作ったのは米軍です。「危険への接近」を言ってのける今の国の姿勢に沖縄と国の関係が象徴されています。
日本の〇・六%の沖縄県に在日米軍の七五%が押しつけられています。市町村面積に占める割合で見ると、嘉手納町八二・八%、金武町五九・三%、北谷町五六・四%、宜野座村五〇・七%、読谷村四四・六%、東村四一・五%、沖縄市三五・九%、宜野湾市三二・七%、恩納村二九・四%という異常な状況です。
 宜野湾市は、普天間飛行場が市の二五%を占め、キャンプ・ズキャナン基地と合わせて三二・七%が米軍基地です。その他に本市だけで、西海岸のコンベンションセンターエリア等、これまでに四〜五カ所の基地が返されています。現在の宜野湾市役所はもともと通信施設だったところで、那覇空港自身も米軍の航空基地でした。現在、町になっているところは一九七二年の復帰前後に返されたかつての基地ですから、基地と自治体、あるいは基地と住民の生活は切っても切り離せないという状況にあります。

SACO合意と宜野湾市の取り組み

 一九九五年の米兵による少女暴行事件に対する県民的な怒りが高まり、十月二十一日、八万五千人が参加した県民大会が開かれました。また当時の大田知事が米軍基地強制使用の代理署名を拒否しました。こうした事態を受け、九五年十二月に沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)がスタートしました。九六年四月のクリントン・橋本会談による普天間基地返還合意を受け、九六年十二月のSACO最終合意で普天間基地など十一施設の返還が決まりました。しかし、その内容は県内移設が条件で、普天間移設のヘリ基地建設は名護市住民投票で否決、大田知事も建設に反対しました。
 九八年、軍民共用空港建設を公約にした稲嶺県政が誕生。日本政府は、九九年十二月に辺野古沖の海上基地建設を閣議決定しました。二千メートルの巨大滑走路の基地計画に対して、県内移設に反対する県民世論を背景に、現地の辺野古ではねばり強い反対運動が続きました。
 九六年のSACO最終報告は、五から七年、つまり二〇〇三年までに普天間返還という合意でした。しかし、九九年に閣議決定された軍民共用空港建設は、九六年のSACO合意から二十五年もかかる計画です。それまで危険な普天間基地を放置し続けるのか、住民の安全を守れるのか。騒音被害の実態を検証してみました。二〇〇三年の飛行回数は、一九九六年に比べて一・五倍に増えており、ますます普天間基地は危険になっていました。
 地域住民の負担を減らすべきSACOの合意であるはずなのに、九九年合意ではあと十数年もかかる。その間、世界一危険と言われる普天間基地は放置され、周辺住民に対して何の安全対策も取られない。
 二〇〇三年四月、私は「普天間基地の五年以内の返還」「軍民共用の海上基地建設反対」「沖縄からの海兵隊撤退」を強く求め、宜野湾市長選に立候補し、当選しました。
 市長に就任して早速、日本政府当局からは、十六年ではなくて十年で建設できるようにしたいので、それを容認してくれないかという働きかけもありました。私は海上基地建設そのものに反対であるということを強くいい、普天間は日米安保で提供施設になっているが、これは歴史的に見てもおかしい。つまり占領時代に作った基地を、日本政府は法律をつぎはぎして今日まで存続させている。国際的に見ても周辺住民にこれほどの被害を与えながら、基地を提供すること自体がおかしい、と強く主張しました。
 市長就任後の最初の取り組みは、「基地返還アクションプログラムの策定」です。就任時、議会定数は三十人で与党は五名です。初の六月議会で野党側から五年以内返還の具体的な取り組みを示せと質問が出され、私は九月議会までに示すことを約束しました。六月から八月にかけて、基地アクションプログラムを作成、二〇〇三年九月に中間答申を受けて、行動を開始しました。最終的には二〇〇四年四月に基地アクションプログラムを完成しましたが、これは沖縄の基地問題を日米のテーブルに載せることを目指したもです。
 当時の米軍の世界配置は、一九九五年に発表された「ナイ報告」です。アジア太平洋地域で米軍十万人、ヨーロッパでも米軍十万人の駐留体制で、兵力は動かせないということを前提にしていました。ですからSACO合意での基地返還は、日本国内への移設であり、最終的には全部県内移設ということでした。

米軍再編と沖縄の基地

 二〇〇四年十二月、ブッシュ大統領は全世界から兵力を削減すること発表しました。世界的な米軍の再編です。ヨーロッパの四万人、韓国の一万二千五百人の削減は早く決まりましたが、日本の米軍再編の話し合いは大幅に遅れていました。単純な引き算でアジアから三万人削減ですから、韓国での削減一万二千五百人を引くと、日本は一万七千五百人の削減になります。沖縄の海兵隊削減は可能だと思いましたが、米軍再編の議論はなかなかスタートしませんでした。
 私は二〇〇四年と翌年二回訪米し国防総省や連邦議会に要請をしました。自治体の首長がなぜ米国に要請せざるを得ないのか。私たちが日本政府を通してアメリカにいくら訴えても沖縄の声は届きません。一九九五年の少女暴行事件以降、沖縄の基地問題が日本の国会や政府の中でも議論されるようにはなりました。一九九二年の参院「PKO選挙」で社会大衆党の島袋宗康さんが当選し、沖縄の基地問題で質問しました。「その問題は現地の那覇防衛施設局で対処しております」との答弁。つまり、沖縄の基地問題は、防衛庁や防衛施設庁の本省ではなくて、那覇防衛施設局で対処しているということでした。それぐらい沖縄基地問題は放置され続けました。
 九六年、太田県政下でSACOがスタートしてからも、稲嶺県政になっても、国との間で議論はされていましたけれども、沖縄の基地負担に見合う振興策をどうするかという議論であり、基地をどう縮小するかなど安全保障問題の議論がされたとは思えません。地位協定も含めて基地のあり方を変えていくという議論はされませんでした。
 米国は一九八八年から九五年に国内の九七基地を閉鎖。さらにブッシュ政権での米軍再編では、四二五の米国内基地のうち、主要三三基地含め一八〇カ所を閉鎖予定です。そういう中で沖縄を含む在日米軍の再編議論が遅れていたことを危惧していました。なぜなら閉鎖された基地機能が、残った基地へ押しつけられるからです。例えば、閉鎖されたフィリピンのクラーク基地の部隊が嘉手納に移設されました。普天間には基地閉鎖されたハワイの一部が移ってきます。二〇〇五年から日米間で基地再編の議論がスタートすることは分かっていましたが、これで取り残されれば、いっそう米軍が沖縄に入って来て、沖縄の基地負担は大きくなっていく。今こそ具体的な政策、施策を展開をしなければという思いがありました。
 日本政府は沖縄の負担軽減を理由に、米軍を国内の自衛隊基地に受け入れようとしています。米国内でも基地が減らされ、諸外国において、米軍の軍事演習がノーと言われている。自然や野生動物への影響が問題となり、できなくなりつつあります。ところが日本政府は住民の生活や健康がいくら破壊されてもお構いなし。ましてや自然や野生の動物保護のために米軍の演習を止めるなんて発想はまったくありません。米軍にとって日本は本当に住みやすく、文句も言わず、何兆円ものお金を出してくれる国と映っています。こういう日本政府の姿勢が、いかに日本の将来を誤らせるか、真剣に考えなければなりません。
 米軍再編はとても大きな再編で、戦略の転換です。日本、イギリス、グアム、ディエゴ・ガルシアの四カ所を戦略拠点化することを決めました。日本全体の戦略基地化・戦略拠点化であり、米軍による自衛隊基地や民間港湾の自由使用ではないかと私は思います。九七年の新ガイドライン法以降、日本全国の港湾に米軍の軍艦が何度も出入りしてます。先日も沖縄の与那国に米戦艦が入りました。
 グアムは沖縄本島の半分の島で、人口は十七万人ぐらいです。そこに今回空軍、海軍、それから海兵隊、四万人ほど入ることになりました。ディエゴ・ガルシアも一つの島です。イギリスは決して米軍の活動に対しては日本ほど寛容ではありません。一方、米国が日本政府を納得させれば、米軍は日本で自由に行動できる。ここに一番大きな問題があります。私たちは、そこをしっかり見極めながら、日本における米軍への対処をやっていかなければならないと思っています。

沖縄に関する米軍再編内容

 二〇〇四年、米議会上院が海外基地見直し委員会を作りました。七月に訪米したとき宜野湾市として、沖縄こそ閉鎖するべき基地だからぜひ調査するようにと訴え、十一月にこの委員会が沖縄への訪問を強く要請した証言書を提出しました。海外基地見直し委員会は、沖縄の基地を視察し、当時の稲嶺知事にも会い、二〇〇五年八月に最終的報告書を発表しました。「普天間基地の閉鎖」を勧告しましたが、「嘉手納か岩国への移転」、「残りの海兵隊基地の維持」という内容でした。私は翌年訪米し、同委員会のハクスン上院議員の政策顧問スタッフに会い、普天間の閉鎖はいいが、沖縄の海兵隊が撤退しないと沖縄の権利が回復されないと、強く訴えました。結果的に、二〇〇五年の中間報告では七千名の部隊が、二〇〇六年五月の最終報告では、八千名の部隊と海兵隊が一体化してグアムに移ることになりました。
 沖縄に関する米軍再編の最終報告の主な内容は、@辺野古崎沿岸にV字型の二つの滑走路を持つ千八百メートルの滑走路を持つ新たなヘリ基地を二〇一四年までに作る。A普天間飛行場の空中給油機を岩国基地への移駐し、鹿屋やグアムに展開する。B約八千名の第三海兵隊機動展開部隊の要員と、その家族九千人が部隊の一体性を維持してグアムに移転。移転する部隊は第三海兵機動部隊の指揮部隊、第三海兵師団司令部、第三海兵広報部司令部、第三海兵航空団司令部および第二海兵全体司令部を含む(日本政府は司令部だけが移ると事実と違う説明をしています)。C嘉手納以南の人口集中地域にある普天間、浦添にあるキャンプ・キンザー(兵站倉庫)、那覇軍港、キャンプ・ズキャナンの土地の返還。E嘉手納飛行場の戦闘訓練の一部を新田原や築城など本土の自衛隊基地へ分散する、です。
 私は先月、中部の十市町村長と一緒にグアムに調査に行きました。グアムでは、沖縄の基地を受け入れるための計画が着々と準備されています。基本的に海兵隊が全部移るという考え方です。普天間基地の移転先もグアムに確保され、アンダーセン空軍基地の滑走路の横に六十五機から七十機分の海兵航空部隊の格納庫や様々な駐留施設が移る。千五百名の海兵隊・航空部隊が移る。さらに、グアムだけではなくて、テニアン島まで新たな基地が作られることになります。すでにテニアン島の半分は国防総省が借りており、環境アセスが通れば計画は動きます。
 そうなると辺野古はどうなるのかという問題があります。米軍はグアム移転とは別に辺野古の新基地を作りたいと考えています。なぜなら、日本の防衛のためと言うよりは、米軍兵士に必要な技量を維持するための訓練施設として位置づけられています。パナマのジャングル戦闘訓練施設が返還され、ジャングル戦闘訓練施設は沖縄だけになりました。海兵隊はグアムに移っても、沖縄に残った基地は米陸軍の基地になるのではないか。米陸軍は二、三年前、金武町の海兵隊基地の中に都市型訓練施設を作りました。また新たにライフル射撃訓練施設を作ります。さらに座間に陸軍司令部を入れたが、司令部だけでなく、部隊も必要になります。日本本土に米陸軍部隊を置ける場所はなく、それに代替できる機能は、射程距離の長い射撃場がある沖縄のキャンプ・シュワブだと思います。米軍予算の使われ方から検討すると、沖縄は海兵隊の島から陸軍の島に変わっていくのではないかという危惧を私は持っています。
 ですから、北部の首長さんたちにも基地の受け入れをしないという方向をぜひとってもらいたいのですが、残念ながら現実は、なんらかの振興策と引き替えに、受け入れていくという状況です。

米国の安全基準が守られていない普天間飛行場

 日米地位協定の三条三項には「合衆国軍隊が使用している施設及び区域における作業は、公共の安全に妥当の配慮を払って行わなければならない」と書いてあり、米軍が勝手に使うことが制限されています。この運用は米軍基地を提供している国の態度次第です。例えば、イタリアの米軍基地はイタリア軍が管理をしており、米軍の活動はイタリア軍の指令官、管理者の許可を得ながら行われます。毎日、運用計画を出して、現地司令官の許可を得て飛行する。イタリアには昼寝の習慣があり、その時間帯は飛行できません。
 普天間飛行場に関して、私たちは海兵隊も適用される米海軍の安全基準に則して運用されているかどうかを調べました。普天間基地は本当に住宅地のど真ん中にあります。米政府関係者や米連邦議会で、普天間の航空写真を見せると皆驚きます。
 米国では米軍の基地が住民地域に被害を与えるような形で存在することはありません。自分たちが税金を払って養っている軍隊が自分たちに被害を与えることがあってはならないわけです。だから基地は居住地から五十キロとか百キロ離れています。いまアメリカでは、不動産業者が基地の近くに住宅地を作ろうとしていることに対する規制が議論されています。軍が自分たちを守るために土地利用の規制をやろうとしています。
 米国では、米軍の活動が住民に被害を与えないようにする安全基準があります。「AICUZ海軍作戦本部長インストラクション」という基準です。例えば、空域利用の適合基準があります。特に飛行場の場合は他の基地とは違って、戦闘機やヘリが飛び立つため、被害が基地内に限定できないからです。米国内の基準では、滑走路の両端の延長線上、四千五百メートルは住宅や学校、病院など公共施設が建設できません。一番近い九百メートルはクリアゾーンという利用禁止区域です。その次が事故危険区域としてAPZT、APZUがあります。
ところが、普天間ではこの安全基準がまったく適用されていません。戦闘機やヘリが日常的に住民の生活地域の上空を飛んでいます。クリアーゾーンに小学校など様々な施設があります。APZT、APZUの南側は宜野湾市だけでなく、浦添市の病院まで区域に入ります。北側は北中城村役場まで含まれます。この基準は基地提供国(日本政府)が求めれば、その基準に沿ってやりますというアメリカ海軍の基準です。
 二〇〇四年の八月十三日、沖縄国際大学に大型ヘリが墜落する事故がありました。奇跡的に人身上の被害はありませんでした。私は市長として、調査をして、米国政府・太平洋軍司令部に対して、普天間は基準に適合している飛行場ではない、と書面で強く申し入れました。そして去年十二月十九日付で、太平洋軍海兵隊司令官名から「沖縄にかぎらず、どこでも米軍基準は厳格に守る」という返事が届きました。私たちは、米国の安全基準が普天間では守られていないことを再度伝える準備をしています。
 このAICUZ問題は、国会などで議論され、政府は一応それを認めました。しかし、必ずしも適用する必要はないという態度です。私は米軍再編に関連して防衛庁長官や防衛施設庁長官が沖縄に来られるたびに、安全保障という名目で自国の国民が被害を受けるような基地のあり方はおかしい、国民の被害を前提にして基地を置くこと自体がおかしいと、繰り返し言い続けています。

普天間基地早期返還に向けた宜野湾市の取り組み

私は自治体の首長として、二〇〇三年四月の初当選以来、普天間基地早期返還に向けて市民と共に取り組んできました。すでに述べました「基地返還アクションプログラムの策定」、「日本政府への要請行動だけでなく、米国の関係機関への直接要請行動」「米海外基地見直し委員会への働きかけ」を取り組んできました。
 二〇〇四年八月の沖縄国際大学へのヘリ墜落事故後には、三万人が参加する市民大会を開き、県や各市町村の理解と県民世論の喚起を行いました。さらに、普天間基地問題シンポジウムの開催、普天間基地包囲行動への協力と連携、騒音一一〇番の活用、基地監視ボランティア活動など、市民参加の取り組みも積極的に行っています。
 米軍の飛行ルートの宜野湾市役所の屋上に「自分たちの上を飛ぶな」「早く出て行きなさい」と米軍機から見えるように書いてあります。市の公用車にもスローガンを書いたステッカー貼っています。市民用のステッカーも配布しています。
 この四年間は、普天間基地の危険性を訴え、普天間返還をテコに沖縄の海兵隊を動かしたいという思いで取り組んできました。いま海兵隊は動きつつあります。問題はその次のステップとして、残された基地に米軍が入ってくる、あるいは日本本土の自衛隊基地に米軍が入ってくる。日米一体化の流れになっているのではないか。主体性のない日本の外交、国民に本当のことを知らせず密室で安全保障を議論する日本政府のやり方が問題です。
 私の訪米による直接要請行動は、意味あるものだと確信しています。アメリカで会った人々は、私の立場をしっかり理解してくれました。ファインスタイン民主党上院議員は「自分も市長(サンフランシスコ市)だった。あなたを応援します」といってくれました。矛盾に満ちた基地を提供して、住民の生活と命が危険にさらされています。正当な議論をしたら絶対にこちらが勝ちます。現場を知っている自治体がしっかり発言することが大事だと思います。
 沖縄の基地は、一九四五年の戦争で強制的に住民の土地を取り上げて作ったものです。日本政府は県民にいったん返す努力をすべきです。私は五月十七日の衆議院安全保障委員会で「安全保障が自国民を脅かす形で運営されては困る。基地周辺では基準が守られるようにすべきだ。守られていない基地は返還すべきだ。外国の軍隊がいること自体がおかしいし、米海兵隊がいなければ日本が守れないという考え方もおかしい」と強く訴えてきました。
 沖縄だけではなく、岩国含め全国が抱える在日米軍の矛盾を、ぜひみんなで共有していただきたいと思います。
         (文責編集部)