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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2006年?月号
平和フォーラム副代表 清水 澄子
日本は戦前の植民地時代に、国策として朝鮮半島からの強制連行・強制労働を行ったが、政府は戦後六十年間、犠牲者の遺骨問題を解決せずに放置してきた。アジアの共生のためにも、遺骨問題は解決しなければならない。平和フォーラムや宗教者などが、全国二十八ヶ所で「韓国・朝鮮の遺族とともに―遺骨問題の解決へ二〇〇六年夏」を開催した。平和フォーラム副代表で全国実行委員会共同代表の清水澄子さんに話を聞いた。
放置されてきた
強制連行被害者の遺骨問題
日本による植民地統治下で、朝鮮半島から海外へ約七十万人〜百五十万人の人々が強制連行され、炭鉱、鉱山、工場、土木工事などで過酷な強制労働に従事させられました。しかし、日本政府は、敗戦直後に処理すべき強制連行の調査、遺骨問題の解決をきちんとやりませんでした。GHQ(連合軍総司令部)の命令で一九四八年から遺骨返還作業が始まりましたが、朝鮮半島出身の旧軍人軍属のうち韓国に遺族がいる遺骨のみが対象で、中には身元もわからない遺骨も相当にありました。しかも、きちんとした謝罪もせず、葬祭費もつけずに遺骨だけ送ったため、韓国が反発し、返還が中断しました。
日本政府は一九六五年に日韓条約を結んだとき、この条約ですべて決着したと、韓国に旧軍人軍属の死亡者名簿だけを送りました。民間企業への強制連行については、「国と直接雇用関係になかった」との理由で調査もしませんでした。しかし、強制連行は閣議決定され、特高警察がかかわって行われた国策ですから、まったくの詭弁です。
こうした中で、一九七二年、日本の学者、文化人、法律家、教員、市民等と在日本朝鮮人総聯合会とで朝鮮人強制連行真相調査団が結成され、都道府県ごとに自治体やお寺を訪ねて、強制連行された人々の名簿や遺骨の調査を行ってきました。二〇〇三年には韓国からの要請で、調査団は調べた四十三万人の強制連行名簿をソウルで公開しました。平壌でも名簿を公開しました。「どうして死亡通知も遺骨もないのか」。名簿公開は大きな反響をよびました。韓国では真相究明委員会ができ、二十二万件も被害申請が出されました。二〇〇四年には、ソウルで行われた「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」で、調査団は九州の古河鉱業のゴルフ場開発地から数百体の遺骨が出てきたこと等を、ビデオやスライドで報告しました。韓国のテレビ局がそれを特別番組で放映しました。「むりやり連行して、遺族に何の連絡もせず、遺骨をゴミのように扱っている」と韓国の世論が一気に高まりました。
こうした韓国の世論を背景に、ノムヒョン大統領は二〇〇四年十二月、鹿児島での日韓首脳会談で遺骨の調査と返還を要請し、小泉首相も約束せざるを得ませんでした。真相調査団による独自の調査、名簿の作成、韓国・朝鮮における名簿の公開など、長年の努力が日本政府の重い腰をあげさせたのです。昨年五月から遺骨問題に関する日韓協議が開かれ、遺骨の調査が始まりました。
遺骨問題の解決へ
幅広い運動の取り組み
遺骨の調査・返還は、政府まかせでは進みません。歴史認識と過去の清算という問題は、日本の社会全体で取り組まなければならない問題です。一人ひとりの遺骨にはそれぞれの歴史があります。政府がやっているような、何体の遺骨がありました、返還しますという、物のような扱いではなく、遺族の方々に、なぜここに遺骨があるのか、いつどのような理由で亡くなったのかという経緯をきちんと説明し、謝罪と埋葬料など礼をつくし、人道的な返還を実現する必要があります。私たち市民が積極的に取り組み、日本政府が誠実に調査、謝罪し、遺骨を早期返還するようにさせなければなりません。
そこで、私たちは四月に実行委員会をつくり、「韓国・朝鮮の遺族とともに―遺骨問題の解決へ二〇〇六年夏」を開催しました。七月二十八日の東京での追悼会に始まり、八月二十五日の北海道幌加内町での遺骨法要までの約一ヶ月間、全国二十八カ所での取り組みとなりました。特に北海道での「東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」はとても重要な取り組みでした。八月十八日から二十五日までの八日間、韓国の遺族とともに、過去の歴史を認識しながら、旧日本軍浅茅野飛行場の建設工事に連行されて犠牲となった人々の埋葬遺骨の発掘調査を行いました。各地の集会では、遺族の生の声を聞きました。
真相調査団の長年の運動で、お寺に遺骨が保管されている場合が多いことがわかっていましたので、今回の取り組みでは宗教界に協力をお願いし、曹洞宗の有田恵宗・宗務総長に共同代表になっていただき、東本願寺、西本願寺の参加もいただきました。曹洞宗の僧侶の方が、東京での追悼集会で追悼のための祭壇を設けてくれました。各地の集会にも来てくれました。北海道での発掘で遺骨が出てきたときは、お経をあげて追悼してくれました。北海道の取り組みで、曹洞宗の方が「仏教者の立場にありながら、こういう問題について反省していなかった」、「東本願寺や西本願寺とともに、仏教界全体でも取り組めるようにしたい。徹底して調査しよう」と発言していました。平和フォーラムは労働組合が多いわけですが、今回は宗教界の方とも力をあわせた幅広い運動となり、この問題の取り組みが大きく広がったことはとても重要だったと思います。
この取り組みで韓国・朝鮮から遺骨を捜している遺族を招くことを計画しました。韓国からは二十四人の遺族が参加してくれました。しかし、日本政府は朝鮮民主主義人民共和国の遺族の入国を拒否しました。一昨年は随行員の入国拒否でしたが、今回は遺族本人の入国まで拒否したのです。ミサイル問題の制裁だという理由です。七月二十九日の東京集会では、入国を拒否されて参加できなかった三人の遺族の写真を掲げ、ビデオの上映で三人の発言を紹介しました。日本による強制連行犠牲者の遺族の入国を認めない日本政府の姿勢は、道義上も人道上からも許されないことです。北海道の取り組みの中でも、このような政府の姿勢に抗議の声が上がりました。
今回の取り組みは、朝鮮人強制連行真相調査団をはじめとする団体、グループの長年の運動があったから、実現できたのだと思います。この方々の努力を忘れてはなりません。北海道のワークショップは、浅茅野飛行場を調査した小学校の先生や浜頓別高校郷土史研究部などの努力なしには考えられませんでした。
旧日本陸軍浅茅野飛行場
地元での聞き取り調査
今回、遺骨の発掘作業が行われた北海道宗谷郡猿払村は、最北端の稚内市に近いオホーツク海に面した所にあります。戦時下の一九四二年から四四年、この地で行われた陸軍浅茅野飛行場の建設に、たくさんの朝鮮人が強制連行されてきました。過酷な労働と虐待、伝染病などで命を落とした朝鮮人の数は、役場所蔵の埋火葬認許証だけでみても八十九名にのぼります。二〇〇五年秋、浅茅野飛行場があった近くの旧共同墓地の林の中から、一体の成人男性の遺骨が発見されました。遺骨はその後の調査から強制連行された朝鮮人犠牲者のものと推定されました。
この地域では、地元の小学校の先生や高校生による強制連行の聞き取り調査なども行われていました。さらに、朝鮮人犠牲者の遺骨があるということで、今回の遺骨発掘を取り組んだわけです。地元での聞き取り調査に協力したのは七十歳代、八十歳代の方々です。六十年以上も前のことで、記憶は断片的なものでしたが、強制連行・強制労働の実態を知ることができました。
「この地域に朝鮮人のタコ部屋があった。一つの建物に百五十人くらいいて、そういう建物が十棟以上あった」。「朝鮮人の人たちが丸裸で労働させられていたのを見た。みんなやせ細っていた」。「死んだおじいちゃんの話だけれど、タコ部屋から毎晩、アイゴー、アイゴーという泣き声が聞こえてきて、うるさくて困った、と話してくれた」。
「整地を行う時期には次々と亡くなっていき、作業中に亡くなった人の中には土と一緒に埋められた人もいた」。「測量の手伝いをしていた時、遠くの方から大きな悲鳴が聞こえたので測量の望遠鏡をのぞいたら、強制労働の人がトロッコに足をはさんだのだと思う。その人が土をかけられていて、とてものぞいていられなくなって目を離した。そのうちに叫び声も聞こえなくなった」。
「タコ部屋の朝鮮人が逃げると村の半鐘が鳴った。川尻をふさげと警防団の人たちが動員された」。「タコ部屋の労働者が二人、頓別共同墓地の釜の中に隠れて真っ黒になっているのを、村の警防団が見つけたことがある。見逃してくれと泣いて頼んでいたとのことである」。
「近くの医院に、たくさんの朝鮮人がいて、アイゴー、アイゴーと言っていた。それはそれは可哀想だった」。「母親がゆでた芋を病院の前の塀のところに置いておいて食べてもらっていた。直接患者さんに渡すと監督さんに叱られた」。
日本人も食料が乏しかった時代ですが、強制労働をさせていた朝鮮人にはまともな食事を与えず、極寒の地でありながら暖房もなく、まともな衣服すら与えなかったようです。飢えや寒さ、病気で亡くなった方が多いと思います。断片的な証言からも強制連行の過酷な強制労働の実態が分かってきました。
今回のワークショップでは、このように現地の人たちから証言を聞く集会、映画会、パネルディスカッション、交流会など様々な取り組みとともに、遺骨の発掘作業が行われました。つまり、学習や討論をしながら遺骨発掘作業を行ったわけです。
国境をこえて歴史に向き合った
遺骨発掘作業
韓国の遺族や八十人の韓国の学生、在日の若者、中国人、日本の学生や市民など、長年この問題に取り組んできた人たちが一緒になって、犠牲者の遺骨発掘作業に参加しました。参加者は何日も泊まり込み、韓国の大学の先生の指導のもとで発掘作業を行いました。
旧共同墓地の発掘作業で、あばら骨や小さな骨片など、約十体分の遺骨が出てきました。中途半端な火葬だったため遺骨は部分的なものでした。飛行場建設工事で働かされていた人たちが病気などで亡くなった場合、埋葬か火葬にされましたが、末期になると薪の不足や空襲を恐れる軍の命令で、火葬は中途半端なものになったようです。発掘作業に参加した人たちは、犠牲になった人たちの当時の状況に思いをはせざるを得ませんでした。
遺骨発掘という作業を一緒にやることで、市民が国境をこえて歴史に向き合い、二度とこういう歴史を繰り返してはならないという思いを深めたと思います。単に話を聞いているのとは違います。遺骨が出てくればその親を思い、家族に心をはせ、歴史を思う。かたわらで、良心をもった日本人が一緒に作業をしている。そのことを参加した若者たちは実感する。発掘を指導してくれた韓国の先生は、参加した日本人の姿に感動を憶えたと発言されていました。
まさに「東アジアの過去に心を刻み、未来を共に拓く、東アジアの平和な未来のための共同ワークショップ」でした。国境をこえて共に歴史に向き合ったことで、東アジアの連帯が強まったのではないかと思います。そういう意味でも、今回の運動の成果は大きかったと思います。
ワークショップが行われた猿払村は三千人弱の村です。村全体がワークショップの取り組みに協力してくれました。ミサイル問題の直後だったこともあり、最初は、村長さんの腰がひけていました。しかし、猿払村商工会の青年部がこの取り組みはやるべきだと全面的に協力し、猿払村商工会の中に現地連絡先をおいてくれました。三百人近い宿泊者の世話をし、村の女性たちは参加者のために食事を作ってくれました。また、クマザサが生い茂っていた遺骨発掘現場を、村の人たちが下刈りしてくれました。こうした村をあげた協力なしには、今回の取り組みはできなかったと思います。役場の人も村の人たちも「ご苦労様、遺骨が出るといいですね」と声をかけてくれるようになりました。
私はこれまでいろいろな運動に参加してきましたが、今回の取り組みは非常に感動的でした。東アジアの人たちが一緒になって遺骨発掘を行うことで、国境をこえて過去の歴史に向き合い、それを地域の人たちが全面的に協力する。東アジアの平和な未来を切り拓くうえで、とても有意義な取り組みだったと思います。
突然連行された父
遺骨だけでも返してほしい
各地の集会では、遺骨発掘はありませんでしたが、韓国の遺族の方々がそれぞれの重い歴史を語り、私たちの心を揺さぶりました。
「父が突然連れていかれた。どこに連れて行かれたのか、どうなったのか、教えてほしい。遺骨だけでも返してほしい」。「六十年以上たつのに、未だに生死も分からない。死亡したのならせめて命日だけでも知りたい」。
遺族といっても六十代後半から七十歳以上の人たちです。その人たちが涙を流しながら、一家の柱を突然失った家族のつらい思いを切々と訴えました。こういう状況を長い間放置してきた日本政府に重大な責任があります。そのことを何も感じず、日本政府を許してきた日本人の一人として、私たちは責任を問われていると感じました。「命日だけでも知りたい」と発言した遺族の方は、やむなく父親の誕生日を命日にしていました。
韓国政府は真相を調査するために、被害者の遺族に申請するよう呼びかけていますが、徴用された日くらいしか分からない遺族が多いそうです。どこに連れて行かれたか死んだ日も分からないため、申請できない人たちがいるそうです。私たちは政府に対して、全力をあげて生死の確認や遺骨の調査をして、結果を遺族に報告し、きちんと謝罪し、丁重に遺骨を返還するよう求めています。政府に要求するだけでなく、私たち市民レベルでも調査する必要があると思います。戦後六十一年ですから、遺族は高齢になっていますし、日本国内で当時の状況や遺骨について知っている人たちも高齢になっています。急がなければなりません。
今回来日した韓国の遺族のうち、二人はお母さんのお腹にいるときに父親が徴用された方です。ですから二人とも父親の顔すら知らない。子どもの頃「ててなし子」とひどい差別を受けたそうです。母親も「誰の子どもか分からない」と言われて大変な苦労をしたそうです。「父親の遺骨が見つかればいいが、見つからなくても、せめて父親がどこにいたのか知りたい。それが分かればその場所の土を持ち帰り、母親の墓に入れたい」と切々と訴え、土を入れる袋も持参していました。しかし、日本政府がまともに調査しくれそうもないとガッカリしていました。
その二人が、父親についての唯一の書類を見せてくれました。日本政府が韓国政府に渡した名簿で、「旧帝国海軍身上書」と書いてあり、父親の名前と意味の分からない記号が書いてありました。そこで旧海軍の人に聞いたら、一人はニューギニアに行き、もう一人は新潟に行ったことが分かりました。それだけでも、二人は父親に会えたような気持ちになったそうです。日本政府が調査すれば、どこに連れて行かれたか分かるはずです。それすらやらない政府の調査はまったく誠意がなく、ずさんだと思います。
アジアの平和な未来のために
政府は誠実・真剣な調査を
私たち全国実行委員会は八月十一日、政府に次の六項目について要望書を出しました。
(1)一体でも多くの遺骨の所在、死亡に至る経過、遺骨が日本に残留した経緯の調査を真剣に進めること。
(2)遺骨が発見されない場合でも、死亡情報を可能な限り集め、韓国と朝鮮側の遺族に通知すること。
(3)ミサイルと竹島周辺の海洋調査にからんで、日本政府は日韓共同の遺骨実地調査を延期したが、今後は遺骨問題を人道的案件として対処すること。
(4)朝鮮の遺族の入国を制裁の対象とした措置を撤回し、人道精神にもとづく姿勢に復帰すること。
(5)遺骨は保管者から遺族に直接返還し、遺族への経過説明とともに、政府がお詫びを表明すること。
(6)遺骨奉還で遺族が日本渡航する場合、また弔慰金等について、日本政府が誠意ある負担をすること。
国会議員も遺骨問題を国会で調査し、政府に強制連行者の名簿を公開させるべきです。私たちは国会議員に働きかけていきたいと思います。また、政府に対しては徹底した調査と遺骨返還を進めるよう、引き続き働きかけていきたいと思います。今後の取り組みについては、韓国側の真相調査委員会とも協力しながら、今回の取り組みを総括して、検討したいと考えています。いずれにしても調査を進めて、一人ひとりの身元をちゃんとしてあげることが日本人の義務だと思います。
調査する場合、一つ目の手がかりはお寺です。お寺には過去帳があり、無縁仏があります。曹洞宗の方に聞くと、過去帳を調べるには二年くらいかかるそうです。過去帳を調べ、無縁仏とつき合わせるのは大変な作業だそうです。
二つ目は、政府が持っている名簿を公開することです。韓国側の名簿については韓国側に渡したと答弁していますが、公表していない名簿や資料がもっとあると思います。
三つ目は、強制連行にかかわった企業の調査です。
四つ目は、各市町村にある埋葬許可書・火葬許可書を調査することです。政府は企業や自治体に、調査を強く働きかけるべきです。
岡崎トミ子議員が「朝鮮人強制連行・強制労働に関する質問主意書」を出しましたが、それに対する政府答弁書はひどい内容でした。「朝鮮人徴用者等に関する『調査や関係資料の公表』については、日本政府に法的義務はない」と開き直っています。しかし、朝鮮人の労務動員は一九三九年に閣議決定し、日本政府の責任で実行したものです。戦後六十年以上たった今日でも、遺骨の返還はおろか死亡通知も受けていない遺族が、韓国・朝鮮にたくさんいます。一方で、政府は朝鮮半島出身者の名簿を靖国神社に送り、遺族に相談することなく勝手に合祀している事実がたくさんあります。政府は誠意をもって、真剣に徹底した調査を行うべきです。
政府も一般国民も、韓国・朝鮮の遺族の人たちが六十年以上どんな思いできたのか、思いをはせるべきです。それが自分たちの父親だったらと考えるべきです。私たちは日本の戦後の平和運動に欠落していた問題点を感じます。だからこそ、いま広がっているこの運動を、全国的な運動にしていく必要があります。
朝鮮のミサイル問題も含めて、日本社会の右傾化、民族排外主義が強まっています。小泉首相の後継者は安倍氏になりそうです。安倍氏は小泉首相以上にタカ派ですから、日本国民の反発も、韓国・朝鮮の人たちの反発も強くなります。だからこそ、アジアの共生につながるこのような課題を真剣に取り組む必要があると思います。新しい運動をつくっていくスタートにしたいと思います。
(文責編集部)