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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2006年5月号
福井県立大学経済・経営学科教授 本山 美彦
一九九四年、「日米保険協定」が結ばれ、一九九五年に「金融サービスに関する日米両国政府による措置」が確認され、されに、一九九六年に日米保険協定が再確認された。そして、同年十一月に橋本龍太郎内閣で、「金融ビッグバン」による日本の根幹である金融・保険分野の外資への開放があった。今日の郵政民営化もこの時点で照準が定まっていたものと思われる。
一九九四年十月、日本政府は、米国に対して、保険分野の大幅な規制緩和を約束した。保険手続き、保険会社の認可、保険商品の認可、保険審査の簡素化が約束された。つまり、日本の保険分野への外資の参入を容易にすることを日本政府は米国に約束したのである。また、損保と生保間の相互参入も約束させられた。これも、外資の進出を容易にするための措置であった。
重要なことは、保険の新分野、つまり、従来の商品ではない「第三分野」については、日本の簡保や大手企業は進出を禁止され、その分野は外資と日本の中小保険会社にのみ委ねるという約束が交わされたことである。
外資が日本に定着するまでは、日本の大手はその分野に進入してはならないというのである。
損保と生保との垣根を取り払うこととか、第三分野に関して、米国政府が日本政府に強く迫ったことの意味について、米国通商代表部(USTR)の『二〇〇〇年外国貿易障壁報告書』の「サービス障壁・保険」に露骨に説明されている。以下、そのまま引用する。
「日本の民間保険市場は世界有数の規模であり、暫定的なデータによれば、一九九八年度の元受正味保険料総額は三千三百十億ドルに達する。この他に、簡保(簡易保険制度)と呼ばれる公営の大規模な郵便生命保険事業、国民医療健康保険制度、そして数多くの相互扶助組織(共済)が、巨額の保険を提供している。多くの国と同様、民間保険市場の監督は、伝統的な生命保険と損害保険(不動産保険と災害保険)の部門に分かれている。さらに日本の場合、生命保険商品と損害保険商品の双方(例えば、ガン保険、医療保険、傷害保険など)を扱う、いわゆる『第三分野』があり、これは市場全体の五%を占めているにすぎない。これまで、外国や日本の中小保険会社は、この小規模な第三分野で活躍しており、この分野でのシェアの約四割を占めている。一方で生保・損保分野におけるこれらの保険会社のシェアは常に五%を割り込んでいる」。
つまり、第三分野とは、ガン保険、医療保険、障害保険といった新商品のことであり、この第三分野が既存の生保と損保とにまたがるものであるために、外資がこの第三分野に進出しやすくするために、生保と損保の垣根を除去することが重要であると言っているのである。
さらに、膨大な市場である簡保、国民医療保険、共済保険への参入も虎視眈々(こしたんたん)と狙っていることがUSTRの報告では露骨に表明されていたのである。
ところが、日本政府が、一九九四年十月に、日本の既存の大手生保・損保会社が第三分野に進出しないという米国との約束を破って、大手企業が子会社を設立し、この子会社を通して第三分野への参入を図ろうとしたことを認可する気配を示した。この動きが米国政府によって約束違反であると抗議されたのである。
この点について、USTRは、さらに、一九九六年十二月の再確認が必要であったと、次のように記述した。
「日米両国は、一九九四年十月と一九九六年十二月の二度にわたって、日米経済枠組み合意の下で二国間保険合意を締結している。一九九六年の合意が必要となった理由は、日本が一九九四年の主要な合意事項に反した形で日本の保険会社の子会社が第三分野で営業することを認める意向であったことが、米国側に明らかになったためである。主としてこうした取り組みと、両合意の実施に対する米国の現政権の緊密な監視により、日本の保険市場の規制緩和は進み、かつては小さかった生保・損保分野における外国企業のプレゼンスも大きく変わり始めている。米国その他の外国保険会社は、第三分野における順調な業績を維持する一方で、近年は生保・損保分野でも、商品開発と革新的なマーケティング、そして直接投資により急速にシェアを拡大している」。
これが規制緩和であろうか。外資の日本進出を保証するために、日本の大手会社と簡保は、外資が進出する分野への進出をしてはならないというのである。これは、新しい差別であり、新たな規制である。
以下の文章は、同じUSTRの報告書のものである。これが対等の経済交渉であろうか。日本に参入するのは米国の保険会社の権利である。そして、第三分野を外資に提供し、日本の大手の参入を阻止するのが日本政府の任務である。そうした流れを作った上で、新種の自動車保険などを米国の会社に提供すべきであるとUSTRは言うのである。
「一九九六年十二月の『補足的措置』は、日本の大蔵省が実施する生保・損保分野における規制緩和の範囲と時期を定めた。この合意は、激変を避けるという約束に沿った形で、第三分野における日本の保険子会社の事業活動範囲も定めている」。
「具体的には、一九九六年の合意の下で、日本は、年齢、性別、運転歴、地域、車両の使用状況など各種のリスク基準によって保険料の異なる自動車保険の申請を認可することを約束した」。
「第三分野に関して一九九六年の合意の下で、日本は、外国企業が規制緩和後の生保・損保分野でプレゼンスを確立するために十分な期間が経過するまで、日本の保険会社の新規子会社が、ガン保険、医療保険、傷害保険など外国保険会社にとって、とくに重要な第三分野の商品を販売することを禁止または大幅に制限することを約束した」。
「この合意には、一九九六年の合意による生保・損保分野の規制緩和措置を日本が一九九八年七月までに完全に実施した場合、第三分野における激変を避ける措置を解除するための二年半の『時計の針』を始動させることが定められた」。
難しい文章であるが、膨大な日本の保険市場に米国企業を参入させろ、参入を容易にするために、日本の大手企業は、向こう二年半、第三分野への進出はやめろというのである。
第三分野こそが成長分野である。その分野に日本の大手は進出できない。とすれば、日本の生保・損保会社は、外資と合弁し、外資に吸収された形で新分野への参入資格を得て、組織としての生き残りを模索するしかないではないか。
事実、あっという間に保険市場を米国資本が席巻した。現在、テレビで派手に疾病保険や自動車保険でコマーシャルを打っているのは、外資系ばかりであるのはけっして偶然ではない。
自国の企業を進んで外資に捧げる日本の政治指導者とは一体何なのだろうか。
一九九六年十二月の日米保険合意をまとめたのは、三塚博大蔵大臣(当時)とバーシェフスキUSTR代行(当時)であった。しかし、腹立たしいことに、交渉を打ち切り、帰国するというバーシェフスキーに三塚大蔵大臣が電話で妥協したのである。
当時でも『沖縄タイムズ』は、米国政府のえげつなさと日本政府の弱腰を批判していた。
「五十六年ぶりに改正された新保険業法は、生命保険、損害保険会社がそれぞれ子会社を通じて相手分野に参入でき、第三分野への食い込みも可能なはずだった。
ところが、米国は第三分野への参入は日米保険合意に反すると主張、第三分野参入の前提条件として生保や損保の規制緩和と自由化を求めた。米国としては、外資系保険会社が三五%のシェアを占める第三分野を守る立場から、取引材料として規制緩和や自由化を持ち出した、と言えよう。
つまり、米国は、口では規制緩和や貿易自由化など主張しながら、その裏で自国の保険業界の利益擁護だけを追求してきたわけで、エゴ丸出しといわれても仕方ないだろう。
その背景には、損害保険料の自由化も含めた金融自由化の流れがある。完全自由化となれば傷害保険など第三分野に大きく依存する米国系損保会社は大きな打撃を受ける。従って、早期自由化はどうしても食い止めたかったのであろう。・・・
日本は自動車保険など大幅に譲った部分があり、あらためて対米交渉の弱腰をさらけ出した。恐らく生命、損害保険会社にとってはマイナス面の大きい取引になったであろう。
それ以上に大きな問題は、消費者である国民の利益をどう守ったかである。
日米合意の細部については明らかでないので結論めいたことは言えないが、これまでの流れから感じ取れるのは『花は取ったが、実は奪われたのでは?』ということだ。なぜなら、日米保険協議では、業界の利害調整が中心で国民の存在は二の次だったからだ」。
規制緩和と自由化が日本の前向きの構造改革となるのではない。新たな規制と新たな不自由が形成され、そうした新たな環境を謳歌する新しいクローニー(権力者への取り巻きたち)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するだけである。彼らは、公の世界を卑しい私心で食い散らすのである。
二〇〇四年三月、米国生命保険協会のキーティング会長が記者会見で、「簡保は、民間企業から仕事を奪っている」、「米国保険会社を含め民間生保はこの民営化の過程で被害を被ることなく、始まったばかりの民営化に関する議論に意義ある参加を認められるべきである」と語った。
米国の究極の目標は医療と医療保険にあるが、そうした医療保険の原資を確保するためにも、郵政の民営化があったことは、すでに明らかであろう。