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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2004年9月号

ヘリ墜落事故を糾弾する

宜野湾市基地対策協議会委員  石川元平


因果な事故

 何という因果か。ヘリ墜落事故は「十三日の金曜日」に起きた。しかも、伊波・宜野湾市長の訪米報告集会開始直後である。私も市の基地対策協議会の委員として参加していたが、普天間基地に隣接する沖縄国際大学構内への事故発生のニュースが飛び込むや会議は直ちに中止され、市長以下全委員と参加者市民は一斉に事故現場へと向かった。
 けたたましいサイレンと交通混雑のなか現場に到着すると、すでに大学本館の事故現場付近と大学正門前の市道は米軍によって封鎖されているではないか。他の委員と共に「われわれは宜野湾市の基地対策委員である。ここは民間地域、しかも大学構内だ。市道まで封鎖するとは何事だ。ただちに封鎖を解け。封鎖する根拠を示せ」とつめ寄り抗議するも、米軍側は「ノー・ノー」を繰り返すばかりであった。「立入禁止」の根拠と理由を説明する担当者も見当たらず、民間地域が米軍によって実効支配されているさまは、正に「占領地」そのものであった。

予想された事故

 昨年秋に来沖し、普天間基地を上空から視察したあのラムズフェルドでさえ「このような街の真ん中に、事故が起こらない方が不思議だ」と言った。しかし事故は多発している。一九七二年に偵察機ブロンコが燃料タンクを落下させた事故をはじめ、復帰後三十年間にヘリ六十九件、固定翼機八件の事故が発生している。
 最近はイラクへの派兵などもあって、日米合同委員会の合意をこえた軍隊の本質むき出しの深夜の無灯火低空飛行などもあり、不気味さと不安が増す中での事故である。

これでも主権国家か

 米軍による事故現場と市道封鎖に対して、当然のことながら地元マスコミをはじめ、県民世論の激しい指弾を浴びた。県警の現場検証要請に対する米軍側の回答は「日米両国の合意に基づいて要請には応じられない」というのである。「治外法権的に日本の主権が侵害されているのに、政府が米軍の対応を容認し、県警や消防の事故捜査に歯止めをかけたのであれば復帰前の占領統治下と変わらず、主権国家とは言い難い」と地元紙(八月十八日付、琉球新報社説)が手厳しく批判したのは、県民の怒りを代弁したものであった。
 私たちのもう一つの憤りは、伊波市長が@普天間基地の閉鎖に向けて早期に日米両政府は協議を開始すること。Aヘリ基地の運用を直ちに中止すること。この二つの要求をもって上京したことに対する政府の対応である。小泉首相や細田官房長官も「夏休み」で連絡が取れないというのだ。宜野湾市民も日本国民であるというなら、国民の生命・財産を守るのは政府の最大の責務ではないか。私は六十年前、沖縄戦同様、今度は日米安保体制下での屈辱と新たな沖縄差別を見る思いがしてならない。

いま、正に天の声

 米軍はいま海外基地見直し再編の最中にある。私は一九六九年の沖縄返還交渉に次ぐチャンスだと捉えている。在韓米軍は基地の三分の二と兵員一万二千五百人の削減が合意されている。七月に訪米直訴した伊波市長の@「普天間基地」の二〇〇八年までの閉鎖、A市街地上空での飛行中止という要求に対して、米国の関係筋は聞く耳をもった。米国の海外基地見直し委員会委員長は、委員会での意見陳述同等の意味をもつ「意見陳述書」提出に同意した。やはり沖縄基地問題の障害になっているのは、沖縄に安保の犠牲を強いて恥じない日本政府の側である。
 この度の起こるべくして起こった墜落事故を受けて市民・県民の意識も着実に変化してきた。琉球新報社の「緊急県民アンケート」によれば、「SACO見直し九三%」「辺野古移設支持六%」「普天間の無条件返還と国内外への移設八一%」という結果であり、県民意志は明確に示された。宜野湾市議会も「SACO合意を見直し、辺野古沖への移設の再考を求める」などを内容とする抗議決議を全会一致で決議した。これは一九九九年の県内移設容認の呼び水となった決議の事実上の撤回を意味する。
 もともとSACOの原点は、一九九五年の不幸な少女暴行事件を受けて、沖縄の「基地負担の軽減をはかる措置」として日米で合意されたものである。
 宜野湾市では、九月五日(日)に「市民集会」を開く(台風のため九月十二日に変更)。県民総決起大会を視野に入れた抗議行動は、連日多様に取り組まれている。「辺野古」と連動する「普天間」の闘いが、沖縄基地問題の端緒を切り開けるか、正念場を迎えている。