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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2004年9月号

「広島平和宣言」

反核の訴えは没政治的ではあり得ない!

広島修道大学教員  岡本三夫


 読売新聞は八月七日の社説で秋葉忠利広島市長が発表した「平和宣言」を酷評した。「政府は、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮をただすべきだ」というくだりに対して、「護憲を反戦や反核と結びつける主張は、冷戦時代の左翼勢力の思考だ。これでは、世界に誤ったメッセージを伝えてしまう」と批判した。このような「政治的な思惑に基づいた主張は、被爆地の心とかけ離れ、反核運動から国民を遠ざけるだけだ」とも言っている。
 長年、改憲を主張してきた読売の立場から「平和宣言」を読むなら、そういう結論になるのは当然かも知れない。しかし、「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」を定めた憲法第九十九条の趣旨に忠実である限り、「戦争の放棄・軍備および交戦権の否認」(同九条)を主張することは被爆地広島市を代表する市長である秋葉氏の義務である。読売の論説のほうこそ、「政治的な思惑に基づいた主張」だと言わなければならない。
 読売やサンケイ新聞が日本国憲法に根拠を置く戦後日本の民主主義に背を向け、改憲を主張してきたことはよく知られている。読売は改憲試論まで発表して、改憲への気運を煽った。そうした露骨な世論操作をしておいて、改憲への世論が変わったなどと主張するのはフェアとは言えない。
 「平和宣言」に関して言うならば、「反核の訴えを政治に絡めるな」という読売の主張は矛盾も甚だしい。没政治的に「反核」を訴えることなどできるはずがない。核兵器戦略が非核戦略と不可分の関係にあることは現代兵法の常識である。だから、核戦略を批判すると同時に、戦争それ自体に批判の矢を向けるのは理にかなっている。であればこそ、被爆地の「平和宣言」は「戦争の放棄・軍備および交戦権の否認」を規定している現行憲法を尊重し、擁護しなければならないのだ。
 さらに、今年の「平和宣言」は、国連を無視した米国の愚かなイラク侵略戦争が強行され、日本政府が十分な国会審議もせずにイラクへ自衛隊を派兵し、その状態がいまなお続いている最中に発表されたことに思いを致すべきである。マイケル・ムーア監督の『華氏911』を観るまでもなく、米国のイラク侵略戦争ほど「米帝国主義」の醜悪な姿を曝け出しているものはない。
 米国「ネオコン」流の「弱肉強食」思想が、いかに弱小者を奮い立たせ、自らの命を賭してまで「大義」のために反撃してくるかを、「ネオコン」もブッシュ政権も分かっていなかった。それは、かつての資本家が立場の弱い労働者を徹底的に搾取した結果、逆襲され、妥協せざるを得なかった構図と酷似している。「一寸の虫にも五分の魂」とはよく言ったものだ。昔の日本人は「奢れる者久しからず」とも言った。「米国に従っていれば国は安泰」という考えはそろそろ捨てたほうがいい。
 国際関係でも、労使関係でも、「力による支配」には限界がある。ドイツやフランスなど、欧州の主要国は何百年もかけてこの冷厳な事実を学んだ。褒め過ぎてもよくないが、ドイツやフランスがこの「戦争」に反対し、イラクへの出兵を拒否したのは、彼らには歴史の方向性が見えていたからだ。残念ながら、日本政府内にはそのような歴史感覚をもった知恵者はいなかった。それが小泉首相の悲劇なのだ。
 今夏、広島市が発表した「平和宣言」の中に、「将来を見通すべき理性」、「人類史」、「未来に向かう流れを創」るというような表現が頻出するのは、秋葉市長(ないし宣言文起草者)が傑出した歴史感覚の持主であることを示している。内外の政治経済情勢を没歴史的かつ近視眼的にしか見ることのできないマスコミ状況と比べてみるがいい。「平和宣言」にこめられた核兵器廃絶と戦争放棄への言及は来年に被爆六〇周年を迎える広島市民、特に被爆者の悲願を代弁していることが明らかである。
 核兵器廃絶を訴えた古典的文献といわれる「ラッセル・アインシュタイン声明」も、戦争がある限り最強の兵器(核兵器)への誘惑があるから、「戦争そのものを廃絶しなければならない」と訴えている。二十世紀を代表する二人の知的巨人の目に狂いはなかった。「武力ではなく外交的努力によって国際紛争を解決する」という今年の長崎平和宣言も目指す方向は同一である。憲法九条の尊重と擁護は、以上のように、歴史の方向性を見据えた思想であり、被爆地にふさわしい態度表明である。


広島平和宣言

 「75年間は草木も生えぬ」と言われたほど破壊し尽された8月6日から59年。あの日の苦しみをいま未だに背負った亡骸(なきがら)――愛する人々そして未来への思いを残しながら幽明界(ゆうめいさかい)を異(こと)にした仏たちが、今再び、似島(にのしま)に還(かえ)り、原爆の非人間性と戦争の醜さを告発しています。
 残念なことに、人類は未(いま)だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙(ごい)を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています。また、私たちの多くは時代に流され惰眠(だみん)を貪(むさぼ)り、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、勇気ある少数には背を向けています。
 その結果、米国の自己中心主義はその極に達しています。国連に代表される法の支配を無視し、核兵器を小型化し日常的に「使う」ための研究を再開しています。また世界各地における暴力と報復の連鎖は止(や)むところを知らず、暴力を増幅するテロへの依存や北朝鮮等による実のない「核兵器保険」への加入が、時代の流れを象徴しています。
 このような人類の危機を、私たちは人類史という文脈の中で認識し直さなくてはなりません。人間社会と自然との織り成す循環が振り出しに戻る被爆60周年を前に、私たちは今こそ、人類未曾有(みぞう)の経験であった被爆という原点に戻り、この一年の間に新たな希望の種を蒔(ま)き、未来に向かう流れを創(つく)らなくてはなりません。
 そのために広島市は、世界109か国・地域、611都市からなる平和市長会議と共に、今日から来年の8月9日までを「核兵器のない世界を創(つく)るための記憶と行動の一年」にすることを宣言します。私たちの目的は、被爆後75年目に当る2020年までに、この地球から全(すべ)ての核兵器をなくすという「花」を咲かせることにあります。そのときこそ「草木も生えない」地球に、希望の生命が復活します。
 私たちが今、蒔(ま)く種は、2005年5月に芽吹きます。ニューヨークで開かれる国連の核不拡散条約再検討会議において、2020年を目標年次とし、2010年までに核兵器禁止条約を締結するという中間目標を盛り込んだ行動プログラムが採択されるよう、世界の都市、市民、NGOは、志を同じくする国々と共に「核兵器廃絶のための緊急行動」を展開するからです。
 そして今、世界各地でこの緊急行動を支持する大きな流れができつつあります。今年2月には欧州議会が圧倒的多数で、6月には1183都市の加盟する全米市長会議総会が満場一致でより強力な形の、緊急行動支持決議を採択しました。 その全米市長会議に続いて、良識ある米国市民が人類愛の観点から「核兵器廃絶のための緊急行動」支持の本流となり、唯一の超大国として核兵器廃絶の責任を果すよう期待します。
 私たちは、核兵器の非人間性と戦争の悲惨さとを、特に若い世代に理解してもらうため、被爆者の証言を世界に届け、「広島・長崎講座」の普及に力を入れると共に、さらにこの一年間、世界の子どもたちに大人の世代が被爆体験記を読み語るプロジェクトを展開します。
 日本国政府は、私たちの代表として、世界に誇るべき平和憲法を擁護し、国内外で顕著になりつつある戦争並びに核兵器容認の風潮を匡(ただ)すべきです。また、唯一の被爆国の責務として、平和市長会議の提唱する緊急行動を全面的に支持し、核兵器廃絶のため世界のリーダーとなり、大きなうねりを創(つく)るよう強く要請します。さらに、海外や黒い雨地域も含め高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。
 本日私たちは、被爆60周年を、核兵器廃絶の芽が萌(も)え出る希望の年にするため、これからの一年間、ヒロシマ・ナガサキの記憶を呼び覚ましつつ力を尽し行動することを誓い、すべ全ての原爆犠牲者の御霊(みたま)に哀悼の誠を捧(ささ)げます。
 2004年(平成16年)8月6日
  広島市長  秋葉 忠利