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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2004年4月号
農業・農協問題研究所理事長 暉峻衆三
基本法農政の二つの柱
だが、貿易自由化で破たん
戦後の日本は、一九五五年頃から七〇年代初めにかけて、一ドル=三百六十円の固定相場制のもと、最新の機械設備、すぐれた技術力とアメリカの十分の一程度の低賃金によって国際競争力を強め、鉄鋼・自動車・電気機器などの重化学工業を中心に、史上空前の高度成長をとげました。農村から都市へ、若年層を中心とする労働力が空前の規模で移動し、低賃金労働者として高度成長をささえました。六〇年には、ガット体制のもとで貿易の自由化に踏み出しました。
この状況に対応して、六一年に農業基本法が制定されました。「基本法農政」は、二つの柱からなっていました。第一は、日本の農産物を、国内生産を振興する(選択的拡大)ものと輸入にゆだねる(選択的縮小)ものとに振り分けたことです。コメ、畜産、果実、野菜は国内生産を振興し、ムギ類、大豆、飼料穀物は輸入にゆだねて、国内生産は切り捨てられました。輸入相手は大量の余剰農産物を抱えていたアメリカです。第二の柱は、日本農業を産業として自立した近代的なものにし、農工間の所得を均衡できるよう経営の規模拡大と効率化をはかり、中心的な担い手として自立経営を育成することでした。
農民は増産に励めば所得ものびるということで一所懸命に働き、当初はコメの単位面積あたり収量も総生産量も順調に増加しました。しかし、それも六七年ころまでのことでした。コメの消費量は六三年をピークに減少へ向かい、六八年からコメの過剰が表面化しました。コメの消費減少の背景には、日本への余剰農産物の輸出を拡大するというアメリカの食料戦略があります。戦後の食料不足期のアメリカの食料援助と結びついてミルクとパン食を奨励し、若者の食生活を変えていく政策が効を奏し、高度成長にともなう所得水準の向上もあいまって、食の洋風化が進んだのです。七〇年代にはコメの生産調整、減反が始まりました。
重化学工業大企業の輸出と日本の貿易黒字の急増によって、六〇年代末から日米間の貿易摩擦が表面化し、アメリカからの外圧、財界からの内圧で輸入制限品目が減らされました。さらに、七一年のニクソン・ショックによる変動相場制への移行で円高が進み、農産物輸入の増加に拍車をかけました。
しかし、重化学工業は低賃金などの条件を活かして円高も乗り越え、自動車、鉄鋼、電気機器などの集中豪雨的な対米輸出で貿易黒字が拡大しました。巨額の貿易赤字をかかえるアメリカは、八五年のプラザ合意でさらにドルを切り下げ、いっそうの市場開放を日本に迫ってきました。中曽根内閣は八六年に「前川レポート」を発表して市場開放を約束し、九一年には牛肉・オレンジの輸入も完全に自由化されました。
八六年から貿易自由化を促進するガットのウルグアイ・ラウンドも始まります。政府は九三年、農民の激しい抵抗をおしきって、ウルグアイ・ラウンド合意に応じてコメの輸入義務を受け入れ、九九年、高関税とはいえコメの輸入を自由化しました。九五年には、従来のガットに代わって、世界貿易機関(WTO)が発足しました。グローバル化、市場原理主義のもとで、市場、貿易の自由化がますます広がることになりました。
こうして、基本法農政で切り捨てられたムギ類や大豆、飼料穀物だけでなく、国内生産拡大の対象とされた畜産、果実、野菜、そしてコメまで、日本の全農産物が貿易自由化にさらされ、日本の農業基盤の脆弱化が進みました。
全農家の八割以上は
農業所得で生活できない
農業を近代化し、農工間の所得を均衡するという基本法農政のもう一つの柱はどうなったでしょうか。
農業労働の時間あたり農業所得は、六〇年には大規模製造業(従業員五百人以上)の賃金の四〇%程度でした。以後、米価をはじめ農産物価格の上昇に支えられて農業所得も上昇し、六七年には大企業の六六%に達し、格差は縮小します。しかし、六七年をピークに以後、農産物の輸入拡大やコメの過剰によって急低下し、八〇年代には大企業の三〇%にも満たず、小零細製造業(従業員五〜二九人)の半分という低い水準に落ち込みました。基本法農政が掲げた農工間の所得均衡は、急速な市場開放で失敗に終わりました。
これでは農家の暮らしはなりたたず、農民は生きていくために、農外労働に従事せざるを得ませんでした。高度成長の初期は、二、三男の若年層を中心とする労働力が急速に都会の工業部門に移動しました。それにとどまらず、あとつぎの長男や世帯主、さらには主婦にいたる農家労働力が、出稼ぎや通勤のかたちで農外労働に流出しました。
その結果、六〇年以降の四十年間に、農業就業人口は四分の一に激減し、農家戸数も半分に減少しました。同じ期間の西欧と比べると、日本は経営が零細なのに農家にとどまった割合が多いこと、残った農家の八三%が兼業というのが特徴です(西欧は半分が専業)。低賃金と不安定な労働条件で、賃金労働者としての自立が困難という事情もありました。
農業と兼業の両所得をあわせた農家所得を、勤労者世帯の所得と比べると、六五年にはほぼ均衡し、それ以後は勤労者世帯を上まわるようになりました。しかし、これは勤労者世帯よりも多くの就業者をかかえた農家が家族総出で働いた結果で、世帯員一人あたりの所得で勤労者世帯と均衡するのは七〇年代にはいってからです。
農産物の輸入自由化で農業所得が激減し、基本法農政が実現できなかった農工間の所得均衡を農家所得で実現したのは、皮肉なことに農業所得の激減が促した兼業化でした。しかし、九〇年代半ばから、不況や地域経済の落ち込みで兼業所得が減り、農家所得そのものが減少するという、戦後かつてない事態が起こっています。農村で自民党の政治基盤が大きく揺らぐ時代に入りました。
極端に低い食料自給率
危険水準の食料安全保障
輸入農産物が激増し、農業存立基盤の脆弱化が進んだ結果、日本は自国で食料をまかなえない農業小国に転落しました。自給率は極端に低く、世界一の食料純輸入国です。日本の食料自給率は、カロリーベースで四〇%にまで低下し、飼料を含む穀物自給率はわずか二八%、世界で百三十位という低さです。先進工業国のアメリカ、フランス、ドイツの自給率が一〇〇%を越えている中で、日本の自給率の低さは突出しています。
日本は食料を確保するため、飢餓のある国からさえ、金にまかせて食料を輸入しています。地球人口の急激な増加に対応して、自然相手の農業が今後生産をのばしていけるかどうかは不確定ですから、輸入による食料確保は不安定になります。
日本は大量の食料を輸入に頼っているだけでなく、その大部分をアメリカ一国に依存しています。アメリカからの輸入は、飼料用トウモロコシの九五%、大豆の七八%、コムギの五二%、牛肉の五七%を占めています。もし、アメリカから輸入できなければ、たちまち国内が混乱します。食料安全保障という面からも、非常に危険な状態です。
アメリカには、自国の外交手段として、あるいは国内食料が不足する場合に、農産物輸出を禁止したり制限する法律があります。アメリカは七三年の「食糧危機」の際に大豆の輸出を禁止し、日本の国民生活がパニックに陥りました。八〇年の旧ソ連のアフガニスタン侵攻、九〇年のイラクとの湾岸戦争に際して、外交手段として食料の輸出禁止を発動しました。アメリカ一国に大量の食料を依存することは、アメリカに生殺与奪の権を握られているに等しいと言えましょう。
フランスやドイツはイラク問題で自主的な立場をつらぬきました。食料自給率も含めて自立した安定的な国民経済が背景の一つにあるのではないかと思います。他方で、日本は経済も農業もアメリカに過度に依存する構造になっています。そのことが、日本の外交上の立場を弱くしている一つの要因だと思います。
食の安全性、自給率への不安
台頭する農民、消費者の運動
大量の農産物が入ってくる中で、それに耐えられる農業をやろうとすると、畜産はもっぱら安い輸入飼料に、施設園芸は石油や農薬にたよらざるを得ず、巨額の借金で規模拡大をやらざるを得ません。効率重視、市場原理主義で農業近代化はねじまがり、農業生産にいろんな「影」が出ています。大量の農薬や化学肥料の使用は生産者の健康を害し、地下水を汚染し、土壌を痛めます。
外国からの長距離輸送に耐えるため農薬が散布された農産物、肉骨粉やホルモンが投与された畜産物、遺伝子組み換え作物など、農産物の輸入は食の安全と安心にとっての大きな懸念材料ともなっています。大量の農産物貿易は、輸出国側には大量の土壌流出や土壌成分の流失、輸入国には土壌成分の富栄養化や地下水汚染などの環境破壊を引き起こします。また、大量の農産物の長距離輸送は石油資源を大量消費し、地球環境上好ましくありません。
七〇年代以降、農民と消費者の両サイドから、このような農業生産、食生活のあり方に対する反省が起こってきました。八〇年代、九〇年代になると、こんなに低い食料自給率では危険だという国民の声が強まってきます。こうして、環境を保全しながら、良質で安全かつ安心できる農産物を国内で安定的に供給する体制を作るべきだという運動が、農民と消費者の両方で高まりました。
政府もこれを無視できなくなり、WTO交渉で「各国の多様な農業の共存」をスローガンを掲げ、食料安全保障と農業の多面的機能の確保を求めています。これは、強い者が勝ち弱い者は市場から撤退するというWTOの理念に反し、ルールの変更を求める要求でもあります。政府はさらに、カロリーベースの自給率を現在の四〇%から二〇一〇年には四五%に引き上げると公約しました。すでに時期の先延ばしも検討しているようですが、ともかくも政府として自給率の引き上げ目標を掲げざるを得なくなつたのです。
対米依存から脱却し
自立的な国民経済へ
ただし、「各国の多様な農業の共存」、食料自給率の引き上げについて、その実現を政府に期待することはできないと思います。なぜなら、政府は、農産物の輸出超大国であるアメリカへの追随を外交の基本にすえ、貿易と投資の自由化から多くの利益を得ている自動車産業をはじめとする多国籍企業の要求を国政の基軸にしてきたからです。その歴史的帰結が自給率低下と農業小国化です。小泉内閣もこの基本に変わりはありません。むしろ、レーガンやサッチャー、中曽根などが掲げた市場原理主義、貿易自由化をもっと徹底してやろう、自動車や電機など多国籍企業の国際市場での力をさらに強化しよう、というのが小泉首相の構造改革だと思います。「各国の多様な農業の共存」や食料自給率の引き上げを実現しようとすれば、対米追随、多国籍企業基軸の国のあり方を変えなければなりません。
アメリカが主導する市場原理主義のグローバル化は、一面で生産力を急速に増進しながら、他面で世界的規模で貧富の格差を拡大し、貧困と飢えを増大させました。食料安全保障の問題や環境破壊など「影」の部分が重大な問題として登場してきました。先進国の労働者や農民を含む広範な市民層の中で、さらに途上国でも、貿易自由化、市場原理主義に対抗する動きが高まり、九九年にシアトルで開かれたWTO閣僚会議を挫折させました。日本でも、市場原理主義、貿易自由化で被害を受けてきた中小企業から、市場原理主義に反発する声があがっています。多国籍企業に対抗して、それぞれの場で働き生きている人間を基本にして社会や政策の仕組みを変えようという対抗関係が広がり、農業もその一端をになっています。
農民を含む広範な市民層が、国際的連帯を強めつつ、食料安全保障の確保に向けた要求と行動を国民的規模に広げていくことが重要です。それは、外交を対米依存追随から自主・自立の方向へ、国政を多国籍大企業基軸から市民生活基軸に変えていく国民的運動とも結びついています。対米依存のいびつな経済から脱却し、バランスのとれた自立的な国民経済を構築していくためにも、アジアとの関係は重要です。アジアとの共存的関係、平和的関係をどのようにして構築するかを模索すべき時代に入っていると思います。歴史的なチャンスがきているのではないでしょうか。
(談・文責編集部)
『日本の農業百五十年』
一八五〇〜二〇〇〇年
暉峻衆三・編 有斐閣ブックス
定価2940円(税込)