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自主・平和・民主のための広範な国民連合
『日本の進路』地方議員版41号(2008年11月発行)
「佐賀県中国帰国者の会」が結成されて4年になる。しかし、私がこの会の存在を知ったのは、3年前の8月15日のことであった。佐賀県平和運動センター主催の「平和の集い」の講師に招かれていたのが、中国残留孤児で「佐賀県帰国者の会」の会長をつとめる川添緋砂子さんだった。たどたどしいところもある日本語で、懸命に中国での暮らしや養父母への感謝、やむにやまれぬ帰国の願い、帰国後の失意と諦めの生活保護による暮らしの実情を話される川添さんの話は、聞いているのがつらいほど、私には大きな衝撃だった。
◇ ◇
「知らなかった!」、そんな後悔に胸を締め付けられながら耳を傾けた。
私は戦後まもない頃、当時「満州のおばさん」と呼んでいた母の遠縁に当たる人が、満州から引き上げる逃避行の途中で、生き別れになったわが子を必死で捜し続けていたことをはっきり覚えている。その苦しみ、悲嘆にくれる様子は幼心にも胸に焼きついて忘れられない。3人の子どもと荷物、ひとりは背中に背負い、2人の子の手を引いての逃避行の途中、馬で通りかかった知人の中国人が「乗せてってやろう」と言ってくれたので、歩かせていた小さい方の子を頼んだ。ところが目的地に子どもは来ていなかった。「後戻りして必死で捜し回った」と涙を流すおばさんを何度見たことだろうか。とうとう捜し出せないまま二人の子どもと郷里に引き揚げてきた。
私の住んでいた町には、戦後、戦災孤児を収容する孤児院が作られた。その孤児院に、満州からの引き揚げの子どもの通知があるたびに捜しに来て、わが家に立ち寄り、悲しみの涙を流していかれた。遠く舞鶴港までも何度か訪ねて行かれた。当時の経済事情や交通事情の厳しさを考えると、哀切な親心と母子を引き離した戦争の傷跡の酷さがしのばれる。
日中国交の成立で、残留孤児捜しが新聞・ラジオ・テレビで大々的に伝えられるようになったが、永住帰国された孤児の方や近親の方々の喜びの報道を見ることなく、「満州のおばさん」は逝ってしまった。だから、私は帰国された方の幸運をただ単純に「よかったなあ!」と祝福するだけで中国残留孤児の課題にピリオドを打っていたのだ。
◇ ◇
川添さんの帰国後の話、特に「定住措置のお粗末さ」と、私を含めて「周囲の無関心」には日本人として、たいへん申し訳ないと思ったし、いたたまれない思いにもかられた。マスコミに大きく取り上げられる「拉致家族」と比べて「なんという違い!」と腹立たしい思いも抑えられなかった。
川添さんは終戦時9歳であった。父親は郵便局員だった。終戦まぎわのソ連軍の突然の攻撃に着の身着のままの逃避行の途中で両親は死亡。妹と2人、孤児になってしまった。食べ物もなく、風呂にも入れず、あかだらけで頭から足の先までノミをたからせて、飢餓状態だった2人を「このままでは、この子たちは死んでしまう」と手をさしのべてくれたのは父の知人の中国人だった。妹も別の中国人に引き取られた。「あと1日遅ければ死んでいたろう」というきわどい救出であったようだ。
養父母は、川添さんにしきりに「学校に行きなさい」と奨めてくれた。しかし中国語が話せない川添さんはどうしても学校へ行けなかった。ようやく学校に通い始めたのは、3年もたってからである。3年生からやり直し、もともと利発な彼女は、見る見る習得して、2カ月位ずつで、4年、5年、6年生へと進級した。「日本人、頭いいね!」と級友がびっくりした。川添さんは笑って言う。「私は日本人だから頑張りました」と。
こうして彼女は養父母の慈愛の中で、師範学校に進み、小学校の先生になった。その後、大学へ行き直して、中学校の物理・化学の教師になり、副校長にまでなった。学費がなくて中退しようとする生徒には、学費を出してやったりもした。後にみなから推されて議員になり、副主任(副議長)にもなっている。ちなみに今の青島市長は彼女の教え子である。
しかし、文化大革命の嵐が吹き荒れたときには、「日本鬼、日本へ帰れ!」と迫害を受けたこともある。そんなとき、養父母は「誰も日本人と知らない所に行こう」と言ってくれる優しい人たちだった。
◇ ◇
優しい養父母が亡くなり、彼女は師範学校の教授だった夫、長女とその家族、長男を連れて、念願の日本への帰国を果たした。私はたずねずにはおれなかった。
「中国で、いわば功成り名遂げ、安定した社会的地位を捨ててまでも日本に帰りたかったのですか?」「はい、孤児にとって、日本に帰るということは他の何物にも代えることのできない究極の希望です」という答えが返ってきた。ちゅうちょした末、更に聞いてみた。
「帰って来られて、仕事もなく、後悔なさいませんでしたか?」
すると、彼女はちょっと、息をのんで「……後悔しました。しかし、私たちの一生は諦めの一生です。諦めてひっそりと片隅で生きる運命です」「……しかし、このことは中国の友人・知人には、絶対に言えません!」と言って、川添さんは口をつぐんだ。私も悲しみで胸が苦しくなった。
中国残留孤児の帰国後の生活の困難の根源は、帰国が遅れたことにある。40数年も日本語を使わずに過ごして、50歳をすぎてからの帰国は、日本語の習得を著しく困難にした。
川添さんも「日本語は全て忘れてしまっていました。『あいうえお』から勉強です」と言う。帰国後、たった4カ月(後、6カ月になった)の日本語指導では、身につくはずがない。このことが就労を困難にし、加えて生活習慣の違いから近隣付き合いをも困難にしている。
◇ ◇
「佐賀県帰国者の会」から、佐賀県地域福祉課に提出された請願書において、いくつか出されていた要望の中に、
・福岡県で実施している養父母の墓参りへの支援を佐賀県でもしてほしい。
・中国残留孤児を支援する会を行政の方でつくってほしい。
というのがあったが、
県の回答は「墓参の支援はできない。福岡県もしていない。『援護基金』(厚労省の外郭団体)の支援で行かれたものである。また、支援する会は行政がつくるものではなく、あなた方が周囲と交流を通して、理解を深める中から自然発生的に生まれてくるものでしょう」という冷たくそっけないものであった。言葉もままならない人たちに、どうやって交流を深めよというのであろう。
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東京・虎ノ門にある「援護基金」を訪ねて行った。
NHKの「中日友好楼に住む大地の子の養父母たち」のテレビを見た多くの視聴者から寄付の問い合わせが殺到した。NHKの仲介で「援護基金」が募金活動に取り組み、その募金で100名余の養父母への「看病訪問」が実現できた。しかし、墓参は対象が数千名となり不可能だということであった。
70歳前後という残留孤児の年齢を考えると行政の措置を待つ余裕はない。有志と語り合い、10人ほどの呼びかけ人で賛同者を募って、まず「中国残留孤児とその家族を囲む会」を結成した。「せめて中国の養父母たちの何分の1かの優しさ温かさを、中国残留孤児とその家族の方の周囲に築いていこう」と呼びかけて。
1回目の取り組みとして墓参のための募金活動に取り組むことにした。
平和運動センターの大きなバックアップや、市民運動団体の協力も得られた。地元新聞のコラムでも取り上げてもらって、読者の方からの大きな支援もあった。佐賀市の全市議会議員からも匿名を条件に協力してもらえた。市役所の職員にも個人の資格で賛同者を募ってもらった。
結果、昨年10月と11月に、第1陣として4家族8人が内モンゴル、黒竜江省、青島等への墓参が実現できた。今年は第2陣を北京オリンピックの後に3組6人を送る予定であったが、原油の高騰で航空運賃が高くなり、実施を見合わせている。もう少し募金活動を続けて来年秋には実施したい。
また、帰国者の会の相談を受けて、四川省の地震への募金運動も主に佐教組の方で取り組んでもらい「帰国者の会」の方と一緒に福岡の中国領事館へ届けにいった。
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今年から、中国残留孤児への新しい給付制度が施行された。しかし、問題は山積みしている。まず、これまでの裁判の弁護料の問題がある。佐賀でも、裁判原告である中国帰国者の会員6名の人に、1人15万円ずつの費用が大きくのしかかっている。
また、国は新しい制度の施行と共に、残留邦人とその家族に対する自治体からの支援策を例示して、実行を促してはいるが、支援者からの力強い後押しがないと遅々として進まない実態がある。どうしても周囲からの大きな声が上がらないと行政は動かない。
しかも、中国残留邦人とその家族の帰国者は、佐賀県だけでも200数十人いるはずであるが連絡はとれていない。「帰国者の会」に入っている人は、わずか10数人にしかすぎない。「帰国者の会」で連絡をとりたいからと地域福祉課にたずねても、「個人情報保護」の立場から教えてはもらえない。おそらく各町村に1家族か2家族ずつ、他の方の情報も分からないまま、肩寄せ合ってひっそりと暮らしている方も多いのではないだろうか。
残留孤児の2世・3世の就労問題等、大きな課題も抱えておられるはずであるが、声を上げる状況は整っていない。残留孤児が「国に対して帰国の措置が遅れたことに対する国家賠償を求める裁判」を、今回の給付制度の創設を受けて取り下げる集会が開かれたとき、弁護士の方が言われたのは「これからが本当に支援の力が必要となる。自分たちも引き続き見守っていくが、しっかりと支援を強めてほしい」ということであった。
支援する人の輪が着実に大きく広がることによって、福田前首相の「あなた方の苦しみに気付くのが遅れて申し訳なかった。これから幸福になってください」というお詫びが生かされるよう願ってやまない。
・「佐賀県中国帰国者の会」への問い合わせ、支援はこちらへご連絡下さい。
連絡先
〒849-0922
佐賀県佐賀市高木瀬5-14-23 井上雅子
電話0952-31-1869(夜間)/FAX0952-31-1911