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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2002年11月号

「静かな空を返せ」

厚木爆音訴訟で勝利判決

第三次厚木爆音訴訟原告団団長  真屋 求


 国の米軍対策批判の判決

 十月十六日、第三次厚木爆音訴訟(一九九七年十二月提訴、原告約五千人)の第一審判決が横浜地裁で出されました。今回の判決は画期的な内容を含む勝利だと思っています。
 第一は、騒音被害を数値化したうるささ指数(W値)七五以上八〇未満の地域住民にも「受忍限度をこえる被害を受けている」と判断したこと。これまで厚木訴訟では八〇以上にとどまっていた被害範囲を広げ、やっと横田(東京)、小松(石川)、嘉手納(沖縄)の各騒音訴訟と同じ水準としたことです。ただ、住宅地は認められましたが工業地や商業地は認められませんでした。
 第二は、国の主張する「危険への接近論」が排除されたことです。「危険への接近論」とは、騒音を知りながらその地域に転入した者は損害賠償を認めるべきではないという理屈です。判決では「原告が転入する前に騒音の実態について正確に把握することは困難である」とこの理屈を退けました。「危険への接近論」は嘉手納や横田ではまだ排除していません。全国の基地騒音訴訟を励ます画期的なものだと思います。
 第三に、判決で救済を認められた住民数は四千九百三十五人、損害賠償額は約二十七億四千六百万円で、全国の基地訴訟の中で最高額です。
 第四に、過去二回も厚木基地の騒音被害について違法判決が出されているのに、被告の国は防音工事の助成などだけで、抜本的対策である米軍に対する対応をしてこなかった、と地裁は厳しく指摘しました。

 異常な爆音の実態

 厚木基地の爆音が本格的になったのは米軍ジェット機がひんぱんに飛ぶようになった一九六〇年頃からです。この年、厚木基地爆音防止期成同盟(厚木爆同)が結成されました。一九七三年、米空母ミッドウェイが横須賀を母港化して、さらに爆音は激しくなりました。
 爆音の実態は、それを経験したことのない人にはなかなかわかりにくいので、裁判の中で出された爆音被害について一部を紹介します。
 「園児は室内だけでなく、園庭で遊戯をするため、窓は閉め切りにできない。艦載機などが上空を飛ぶと子供たちは両手で耳を押さえて身をすくめる。歌を歌っている最中にも騒音で中断されるなど、子供たちの集中力が続かない」(幼稚園園長)。
 「遠方の友人と電話で話している最中に何度も爆音で中断された」「息子は夜遅い仕事で午前中が睡眠時間だが爆音で睡眠がとれない」(主婦)。
 「一番つらいのはお客さんからの電話がかかってきたとき爆音で話し声が聞き取れないこと。仕事が取れないこともある」(大和市表具師)。
 「子供が爆音でおびえ、怖がって私から離れない。子供の精神的・身体的影響が心配」(相模原市主婦)。
 「病気を見極めるのは聴診器を当てた最初の音で分かるはずだが爆音で聞き取りにくい」「緊急病院なので緊急の電話もよくかかってくるが爆音で何度も聞き返す。何のための緊急病院だ」(病院院長)。
 「グォーン」「バリバリ」「キーン」という爆音を発しながら住宅地の上を低空で通過する米軍機。騒音などという生やさしいものではありません。轟音、痛音であり、住民の腹の底まで響きわたり、頭や耳の中に突き刺さってきます。思わず身体をすくめ耳をおさえて怒鳴る大人たち。おびえて立ちすくみ泣いて親にしがみつく子供たち。ノイローゼになった人、母乳が出なくなった母親、頭痛やめまいなどの健康障害、生活全般に影響が出ています。とくに幼児や子供たちへの影響は大きいです。
 九月中旬、厚木基地の航空機離着陸回数のデータを初めて政府が公表しました。それによると、一九九九年から二〇〇一年で米軍機と自衛隊機の離着陸回数は年平均五万七千回。月平均では四千七百九十一回、最大は二〇〇〇年二月の六千二百八十一回です。一日平均は約百六十回、最多は米テロ事件直後の昨年九月十七日、四百五十一回。そのうち四百十二回が米軍機によるもので、アフガン攻撃への訓練のためで、すさまじいものでした。

基地撤去こそ爆音の解消

 私は東京で教師をしていた頃、大和市内に引っ越しました。厚木基地は厚木市にあると思っていたのに大和市と綾瀬市にまたがっていました。爆音を体験し、正直逃げ出そうと考えていました。ところが、一九六一年十月に、兄が自転車に私の長男と次男を乗せて近くの小田急線の無人踏切を渡ろうとしていたとき、爆音で電車の音が聞こえず自転車ごとはね飛ばされました。六歳の長男は即死、四歳の次男は重体、兄も骨折。あの事故から逃げ出さないで基地をどかす覚悟を決め、爆同の運動をやってきました。
 墜落事故も相次ぎました。一九六四年四月、町田市の商店街に墜落し四人が死亡、三十一人が負傷。同年九月には大和市の館野鉄工所に墜落し、五人が死亡、三人重傷。七七年九月には横浜市緑区(現、青葉区)に墜落、幼児二人が死亡、重傷だった母親も後に亡くなりました。
 とくに館野鉄工所への墜落事故は、爆同として基地撤去、安保反対を打ち出すきっかけとなりました。ただ爆同は住民運動ですから、爆音防止という目標を定め、テレビ受信料免除や騒音電話機設置など具体的な運動を一歩ずつやってきました。それらは諸刃の剣ですが、要求を実現することで信用が高まりました。
 そして、「厚木基地の爆音をなくし静かな空を取り戻そう」と九十二人が訴訟を起こしたのが一九七六年の第一次厚木基地訴訟です。九五年十二月、最高裁は被害を認め総額一億六百万円の損害賠償の支払いを命じたものの飛行差し止めは却下しました。八四年十月に百六十一人の原告で第二次厚木爆音訴訟(九九年七月終結)。一次、二次の裁判で違法性は認められながら、その後も厚木基地における爆音は少しも改善されていません。裁判所が認めた厚木基地の被害地域に居住する住民は百万人をこえています。国は本来、すべての被害住民に支払うべき損害金を原告でない多くの被害住民には支払わず、飛行差し止めにも応じません。
 そこで、より広範な住民で裁判を起こし、国に対し多数の住民が騒音被害に苦しめられ、その損害は膨大なものであることを明確に示し、政府を追い込もうという戦術で九七年十二月、約五千人の原告による第三次厚木爆音訴訟を起こしました。
 今回、二十七億円の損害賠償の判決が出ましたが、私たちが望んでいるのは金銭補償ではありません。厚木基地の爆音解消、つまり基地撤去による「静かな空」の回復です。
 しかし、国は私たちの要請を無視して十月二十九日に控訴しました。被害者をどこまで苦しめるのか、本当に怒りを感じます。
 今も、イラク攻撃にそなえた爆音が響きわたっています。基地をなくし、静かな空を取り戻すため、今後も全国の基地訴訟とも連携しながらたたかい続けたい。(文責編集部)