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自主・平和・民主のための広範な国民連合
月刊『日本の進路』2000年6月号
 
長崎・沖縄連帯集会での講演要旨

沖縄サミットと基地問題を考える

―憲法の視点から―

琉球大学教授  高良鉄美


 森氏が幹事長の時の三月二十日に地元で「沖縄は学校で君が代を教わっていなかった。沖縄教組というのは共産党が支配していますから、沖縄の先生も沖縄の新聞、琉球新報、沖縄タイムスも恐らくそうです。だから何でも政府に反対、何でも国に反対」と発言をした。あまりにも民主主義が足りない。沖縄は何でも反対なのではなくて、反対せざるをえない理由、現実があるんです。沖縄国体が決まったとき政府はいろんな行事で君が代を歌うよう強く指導したことがあります。三月の森発言は、政府に反対する運動、平和運動をするなという圧力だと思います。
 その十日後の三月三十日、沖縄県議会で、一坪反戦地主排除の陳情が採択されました。昨年、平和祈念資料館の展示内容を改ざんする動きがあり、展示内容を検討する監修委員が、この事実をマスコミに発表し大きな問題になりました。監修委員から一坪反戦地主を排除しようのが自民党の真意です。サミットを前に、県民に対する圧力だと思います。
 この陳情の中で「一坪反戦地主の土地所有の目的は、土地を経済的に使用する為のものではなく、国の政策を妨害する為のものであるから憲法第十二条違反である」、つまり、権利の乱用だと述べています。しかし、憲法では思想・信条の自由、表現の自由を保障しています。
 民主主義と人権はどういう関係にあるのか。みんなが意見を言って、最終的には多数決で決めよう、というのが民主主義だと思います。しかし、思想・信条の自由や信教の自由などの基本的人権の問題は、多数決で決められない問題です。

沖縄戦と原爆と憲法

 沖縄タイムスの出した「鉄の暴風雨」という本があります。沖縄戦での日本軍の従軍記者の記録です。暴風雨のように弾が飛んでくる米軍の攻撃や悲惨な体験を細かく記録したものです。沖縄タイムスや琉球新報が偏っていると政府は批判していますが、悲惨な沖縄戦を体験した沖縄は、それだけ強い平和への理念をもっているんです。
 沖縄には天然の鍾乳洞、ガマがたくさんあります。そのガマの中に米軍の攻撃を避けて多くの人たちが避難していた。沖縄戦の映画でもガマの中の描写が出てきます。しかし、映画には臭いがない。ガマの中は、人間の生理的な臭いがありますから大変な臭いです。
 沖縄戦が終わりの頃になると非常に悲惨な状況が起こってくる。すでに五月にはドイツもイタリアも降伏してヨーロッパでは戦争が終わっていた。大部分の日本人は知らされなかった。連合国側から日本も戦争をやめないかと打診があったのが五月八日、日本は翌日に断った。もしこの時点で日本が受け入れていれば沖縄戦はあれほどの被害はなかった。しかし日本は決定できなかった。
 七月に入って、アメリカは原爆の実験に成功した。ポツダム宣言は七月二十六日に出された。七月二十八日の御前会議でポツダム宣言を受け入れるということになったが、軍部の抵抗で拒否と受け取られる表現をした。日本がポツダム宣言を拒否し、原爆を使う口実を与えた。
 憲法の前文の「恐怖と欠乏から免かれ、平和に生存する権利を有することを確認する」が平和的生存権の問題です。恐怖と欠乏というのは、当時の問題だけでなく、原爆の場合のように後々まで影響する問題もあり、原爆も平和的生存権の問題と関わりがあると思います。
 いま世界で人権という言葉がさかんに使われます。国連憲章とポツダム宣言に基本的人権という言葉が登場しましたが、憲法に基本的人権が登場したのは日本が最初です。
 アメリカやイギリスなどサミット構成国は、かつて植民地をもっていた列強諸国です。力で維持するというのがサミットの構成国が考える平和であり、日本国憲法の平和とかなり違う。アメリカのようにどこの国でも力でつぶせば民主主義になるというのは間違いです。
 昔、琉球王国は、どうやって平和を守ったか。元が九州に攻め込んできたという元寇というのがありました。実は二度とも沖縄にも攻めてきたが、元は琉球を征服できなかった。琉球は戦わず、元に水や食料を与えた。東南アジアにはたくさん海賊がいましたが沖縄が襲われたことがない。琉球王国は、交流、交易によって平和を守っていた。

沖縄の基地問題の現状

 嘉手納基地騒音は九〇ホン、一〇〇ホンの騒音が年間二百二十五日もある。あまりにも騒音がひどいので平和的生存権の問題として裁判になった。現在も新たな訴訟が起こっています。米軍の司令官は「あれは平和の音だ」と言った。沖縄は平和で生存しているとは言えません。
 人間には視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五感があります。沖縄県民は、日常的に五感に感じする戦時恐怖を体験しています。低空飛行、行軍、爆撃訓練等の視覚による恐怖。爆音、エンジン調整音、実弾砲撃訓練などの聴覚による恐怖。沖縄戦を体験されたお年寄りの方には銃を持った米軍の行軍は沖縄戦そのものです。
 沖縄復帰当時に核はないと言われていたが、かつて沖縄には千二百発の核がありました。復帰前に毒ガス漏れ事故がありました。この事故で初めて沖縄に毒ガスがあることが分かった。また九七年十一月には米軍の倉庫で火災があり、住宅地域に煙と異臭が漂った。牧港地区のキャンプ・キンザーという米軍の倉庫にも何があるか分からない。一九六八年に爆撃機B52が嘉手納基地に墜落した。たまたま核爆弾を搭載していなかったが、火柱が数百メートル上がり、爆発音が那覇まで聞こえた。大変な恐怖でした。五感に感ずる戦時恐怖が続いている上に、米軍基地に何があるか分からないという恐怖があります。

沖縄と平和憲法

 沖縄と憲法は非常につながりがあります。四月一日は米軍が沖縄本島に上陸した日です。米軍が沖縄に上陸して「日本国の権限を停止する」と宣言した。つまり、明治憲法も何もない状態になった。それが一九四五年四月一日です。
 四月二十八日。一九五二年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約が発効した。講和条約の三条で「北緯二十九度以南(奄美諸島も含めて)はアメリカが施政権をもつ」となり、沖縄は日本から分離された。日本国憲法は沖縄には適用されなかった。同時に、日米安保条約が効力をもった。日米安保条約と対日講和が発効して、本土の基地は大幅に返還されたが、アメリカが直接支配した沖縄に米軍基地が集中していった。
 五月三日は憲法記念日です。復帰の七年前の一九六五年、アメリカ統治下、日本国憲法の記念日を沖縄でもやろうと当時の立法院が決め、憲法が適用されていない沖縄でも五月三日が憲法記念日になった。
 五月十五日。一九七二年五月十五日は沖縄が復帰した日。日本国憲法が沖縄にも施行された日で、沖縄にとって、もう一つの憲法記念日です。
 六月二十三日は沖縄では慰霊の日です。日本軍の牛島中将が自決した日で、日本軍は組織的な戦闘ができなくなった。しかし、沖縄で最後の日本軍兵士が山を降りたのは一九四六年の一月になってからです。六月二十三日の慰霊の日は、沖縄では大規模な行事が行われています。五年前の六月二十三日に「平和の礎」の除幕式がありました。
 九月八日は、沖縄県民投票が行われた日です。全国でもはじめてでした。住民投票が行われているスイスの人たちは「お金や時間より自分たちが決められる直接民主主義がはるかに大事」だと言っています。いろんな問題をみんなで議論し合って決めていくとことは本当に大事です。
 十月二十一日は、一九九五年九月に少女暴行事件が起きて十月二十一日に八万五千人が参加して県民総決起大会が開かれた日です。
 一九五〇年代の土地闘争では十万人以上の集会が開かれたことがあります。米軍基地をつくるために米軍はブルドーザーと銃剣で県民の土地を奪っていった。県民は島ぐるみの土地闘争を展開した。その時の方針に、土地闘争は人権の闘いだ、だから米兵個々人の人権も守らなければならない、と書かれている。これほど人権を大事していたのかと驚きました。
 復帰運動が高まる中で、教員のスト権・争議権を制限するため琉球政府の立法院が教公二法(教育公務員特例法と地方教育区公務員法)という法律を作ろうとしました。米軍が裏で手を回し、復帰運動の中心であった教職員を抑えようとした。教職員は教公二法阻止のために二千五百人で立法院を取り囲んだ。これを聞いた県民が結集し、ついに二万五千人に膨れ上がった。立法院は「今日は中止」と発表したが集まった人たちは立ち退かず、結局、教公二法案は破棄になりました。
 私が憲法を知ったのは小学五年生の頃です。沖縄では東京オリンピックをきっかけに日本国憲法に対する関心が高まりました。憲法九条や基本的人権の尊重等、すばらしい平和憲法がある日本に復帰しよう、それが復帰運動の盛り上がりになりました。一九七二年に復帰して、やっと憲法によって基本的人権が保障されるようになったと実感しました。

ニッポン最近の人権事情

 昨年、新ガイドライン関連法をはじめ、いろんな問題が一斉に出てきた。国民主権は無視され、国会が数の暴力機構になった。多数決で決めていい段階になるには、まず平等であるか、また人権が保障されるかどうか、民主主義の土台が必要です。民主主義の土台がなく多数決で決めるのが今の国会の状況です。
 通信傍受法は、まさに戦前と同様に国民生活を統制下におくこと。地方自治に関しては、新ガイドラインの中で自治体が米軍への協力を義務化する。サミットの準備の中で沖縄では、自治体、自衛隊、米軍の協力体制が作られています。
 四月に入って改正された米軍用地強制収用特措法の手続きが始まりました。たとえ収用委員会が反対しても防衛施設庁は異議を申し立てることができる。そして最後は総理大臣が決める。つまり国が決めれば国民は抵抗も反論もできない法制度が作られています。
 普天間飛行場について米軍は、沖縄復帰の当時から新しい基地に移転したがっていた。那覇軍港の移転問題も同様です。那覇軍港は、ずっと使っていない。米軍は浦添に移転するねらいは、浦添の港は水深が深く空母も接岸できるからです。また浦添港とキャンプキンザーの米軍倉庫と直結するねらいもあります。
 私が帽子をかぶるようになったのは九四年十二月です。学生を連れて県議会の傍聴に行ったら傍聴規則に「帽子・コートはだめ」と書いてあった。なぜかと聞いたら、国会傍聴の規則に準じているとの返事。帝国議会の貴族院の規則が出発点です。主権者は天皇で、議会の傍聴は恩恵なんだから正装で来なさいということなんです。しかし、憲法は変わり国民が主権者になった。国会の審議を見たり知ることのは権利です。帽子の話を聞かれると、国民主権、知る権利の話をします。

サミット沖縄基地、本土の沖縄化

 政府は、サミットを通じて米軍、自衛隊、自治体の協力体制を沖縄で作り、そういう体制を全国の自治体に広げようとしています。いま沖縄の各自治体はサミット歓迎ムード一色です。クリントン広場を作ろうという話まで出ている。広大な米軍基地を置かれて、人権被害が続いているのに、なぜこんな話が出てくるのか私には理解できません。
 あと五年で戦後六十年ですが、それまでに戦争があるのではという危機感をもっています。今年はサミット問題も含めて、非常に重要な年だと思っています。
 憲法九条がある日本国憲法は普通の憲法ではないと思います。しかし、有名な国際平和学者は、日本国憲法は「侵略戦争を放棄する」と書いてあるスペイン憲法に似ていており、普通の憲法だと言う。なぜかというと、実際に行っている日本の政策が普通の憲法になってしまっているということです。全国に基地を置き、海外に自衛隊が出られるようになったきた。日本の政策を見ると普通の憲法と変わらないという指摘です。
 世界の動きをみると、二十一世紀の後半には日本国憲法は世界的にも意味を持つことになると思います。日本国憲法が世界の流れになったとき肝心の日本では憲法が改正がされるということになったら醜態だと思います。憲法九条や国民主権、基本的人権の尊重など日本国憲法を大事にしなければなりません。
         (文責編集部)