日中国交正常化50周年

日本には日本らしい中国とのつきあい方がある

元早稲田大学総長 西原 春夫

 今年は日中国交回復50周年という節目の年に当たる。本来なら、紆余曲折を経ながらそれなりに友好関係を結んでこられた日中関係を祝賀し、今後さらにこの関係を発展させるよう両国で盛大な諸行事を開催すべきところだろう。しかしここ数年、中国に対する国際社会の対応は今までになく厳しくなったので、日本も日中関係だけを考えた対応ができないようになってしまった。まして50年前両国首脳が日中共同声明を出した9月29日という日に中国が国際社会の中でどのような位置づけになっているかさえ見当がつかない。これが与えられた現実である。


 そのような中にあって、昨年12月6日、アメリカは北京オリンピック開会式に公の外交使節団を派遣しないことを決定、公表した。いわゆる「外交的ボイコット」である。これに対し中国は激しく反発、対抗措置を講ずるとした。このアメリカの態度が世界のどこまで広がるかは、本稿締め切りの時点では予測できない。アメリカは他国に同調を求めないとしているが、拡大の動向次第では、日本は態度に苦しむことになるだろう。
 さらに問題が複雑になったのは、ほぼ同じ時期、12月9~10日に、アメリカのバイデン大統領主導のもとで、「民主主義サミット」が開かれたことである。これについては、参加の招待基準が適正であったかとか、新たな世界の分断を招くのではないかとの批判が内外から寄せられたようだが、前述のボイコット問題が価値観の対立を背景としていることがよりはっきりしてきた。
 問題は、日本がこのような国際情勢の中にあってどのような態度を採るべきかである。その場合、「価値観の違いを背景としたボイコット」の意義と効果を十分に考えないと道を誤ることになると私は考えた。問題の本質を見誤ってはならない。そのような憂慮が本稿となった。

問題提起

 アメリカの「北京オリンピック外交的ボイコット提案」の理由は、新疆ウイグル自治区における「人権侵害」にあるとされた。私自身はそれがどの程度のものであり、現在もなお続いているのかどうか、実態を知らないが、もし言われるような実態があるとすれば、望ましくないことはいうまでもない。私も法律家だから、その意義は十分にわかっている。
 しかし注目しなければならないのは、単にそのような「個別行動が適当でない」と言うのと、その個別行動が特定の価値観を前提としているから、その「価値観ぐるみでそれを適当でない」と言うのとでは雲泥の差があるということだ。もしその特定の価値観が、その国にとって歴史的にほぼ採らざるを得ないものであったとしたら、「その価値観をやめろと言うに等しい批判」は到底受け入れられないだろう。忠告に従うどころか、反発さえ覚えることになる。
 さらにもしそのような価値観はもちろん、それに基づく個別行為にもそうせざるを得ないある程度の理由があるとしたら、その理由を考慮せずにただ「やめろ」と言われても効果はない。その理由を理解した上で、「ではどうするか」を共に考えるのとでは大きな開きがある。
 これは、単に新疆ウイグル自治区における人権問題のみに限られないだろう。中国の行動に対し国際社会が懸念している事項は他にもある。香港、台湾をめぐる問題、東シナ海、南シナ海における領土問題、軍事的脅威。現在中国最大の基本方針である一帯一路構想やアフリカ諸国との協力関係の中にも、発展途上国支援という優れた側面もある半面、例えば「債務の罠」問題に露呈した、新帝国主義とも言えるような覇権主義がほの見えているように国際社会は受け止めている。
 他方中国からすれば、そのような行動を採るそれなりの理由があるに違いない。それを容認するのではなくとも、そのような理由を知った上で「どうするか」と言うのと、「そういう行動の根拠となる価値観がけしからん、やめろ」と言うのとでどちらが効果の点で勝るか、それこそ一目瞭然だろう。
 そもそもアメリカを含む西欧先進国は一神教であるキリスト教、なかんずくより理念的なプロテスタントを信じているところが多い。そのせいかどうかは定かでないが、価値観の観点から物事を対立させ、他方を排除したがる習癖がある。したがって、国際社会から見て懸念されるような行動が認められた場合、それに対し明確に批判、非難を加えてやめさせようとする態度になる。その上、価値を同じくする国々をも対立構造に巻き込む傾向さえ見える。今日「価値観外交」という言葉が当然のように用いられ、それが今回の民主主義サミットに具体化されている状況は、それを表している。
 しかし私は、日本はこの際対立を生む理念先行型の道を行くのではなく、友好的に効果を発揮する現実型の道を採るよう決断すべきだと考える。それは、対立構造の構築にわりと淡泊なアジア的な精神構造、元来争いを好まない日本人らしい国民性にも合うのではなかろうか。

危ない綱渡りをしなければならない中国

 私は以前、いくつもの組織の代表者として、その組織をどのように運営し、発展させていくかについて苦労を重ねた。そのような体験があるものだから、別の組織についても、私が代表者だったらどうするかを考える習慣が身についた。他方、私は法律家だから、ある人の行動を切り離して考えるのではなく、どうしてそのような行動をしたのかの背景を探り、それぐるみでその行動の意義を考える癖がついた。思えば難儀なことである。
 一方、私は中国と関係の深い大学の代表者を仰せつかったので、その伝統を継承発展させるべく、中国と深い関係を結ぶことになった。その結果として、前述のような提案を持つに至ったことは疑いない。ある刑事裁判官が、ある犯罪者の量刑を考えるにあたって、犯罪行為そのものだけでなく、その行為をするに至った諸事情を勘案しなければならないのと同様に、中国の行動の意義と正しい対応を考えるには、本当は私のような考慮が必要だと言えるのではなかろうか。それなしの意義づけと、それに基づく対応は道を誤る。
 そういう観点で習近平国家主席の立場に身を置いてみると、気の毒なほど困難な立場に置かれていることに気づく。それは大げさに表現すると、右にも左にも1センチもぶれることを許されない危ない綱渡りをたった一人でやらされているに等しい。
 民主主義の側に立つ人は、共産党一党支配には欠陥があるから民主化すべきだと言う。私も日本人だし法律家だから、その意見は痛いほどよくわかる。だが、今、中国はそれをやめられるだろうか。56の異なる民族を含み、市民社会の経験を積んだことのまったくない、地方性に富んだ14億の民に選挙権を与え、その前提として例えば表現の自由、結社の自由を認めるべきだと主張することは、内乱を起こせと言うに等しい無責任な発言というほかはない。議会制民主主義を可能にする条件がまるっきり整っていないのである。私は共産党一党支配を是認しているわけではない。ただ相手を評価する場合に、そうせざるを得ない相手の立場に立つべきだと言っているだけである。
 このことは、新疆ウイグル自治区における人権問題についてもある程度当てはまる。イスラム教の信者がどのような宗教観を持っているかは、日本人の多くは知っているだろう。そのような宗教観を持つ民族が大部分を占めるのが新疆ウイグル自治区である。党としては、国の統一性の確保という観点からどうしてもいろいろな制限を設けざるを得ないだろう。まして周辺の国々には過激なイスラム原理主義者がいて、それの外部的影響も無視できないようだ。外国人としては、そんな自治区は国から切り離した方が楽ではないかと思うけれども、中国にとっては他の問題との関連もあり、そのようなことは絶対にできないだろう。国家主席の立場からすれば、国の統一を大前提にして、秩序維持を図るほかはない。せいぜい他にもっと良い対応ができたかどうかが問題になるだけである。

中国の発展可能性

 前述のように、私は中国の個々の行動に対する対応として、日本はそれを基本的価値観ぐるみで非難するのではなく、そのような価値観を採っている背景を理解し、その上で「ではどうするか」ということをアジアの一員として考えるという立場に立つべきだと考えた。友好関係の維持という観点ばかりでなく、効果の点でもそれが優れていると思うからだ。
 さらに、個々の行為への対応のみならず、全体として中国とどうつきあうべきかを考える場合、単に「過去から現在に至る歩み」を理解するばかりでなく、「現在から未来に向けた予測」が不可欠だと思う。そこで私のこの点の考えをご紹介することにしたい。もっともそれはあくまでも可能性の指摘であるにすぎない。

1.中国の歴史と発展可能性

 第一に注目すべきは中国の歴史である。
 中国は一見して発展途上国がようやく先進国の仲間入りしたように見えるが、それは近代の歴史の成り行きの結果であって、大昔は今のヨーロッパや日本など足元にも及ばない世界の一大文明国家だった。唐の時代(618~907年)には首都長安は世界の憧れの的であり、日本人には最高の留学先だった。日本にとり、中国は国家制度や漢字や芸術の師匠にほかならなかった。
 しかし、私どもは中国の優秀さを単に古代国家の中に認めるに止まってはならない。実は現代中国にもその優秀さが見えていることに気づかなければならない。そのことは、1949年に中華人民共和国が設立されたときの中国と今の中国を比較するだけでわかる。
 もっともそこには、例えば何千万人の人が死んだと言われる大躍進の失敗、10年にわたり発展が完全に停止した文化大革命、世人を驚かせた天安門事件などの出来事があり、現在では国際社会に懸念を抱かせるさまざまな行動が見え隠れするので、優れた発展など考えられない印象を世人が持つことはよくわかる。ただ「中国国民の幸福」「中国の国際的地位」「未来に向けた躍進意欲」という観点で当時と今を比較した場合、その発展のものすごさに気づくだろう。その延長線上での進展は可能性としては存在する。背後に世界有数の一大文明国だった往時への回帰がはっきり読み取れる。

2.「変化・向上を旨とする国」という性格

 次に注目すべきは、社会主義中国が、元来「変化・向上を旨とする国」という性格を持っていることである。
 日本を含む民主主義国はその価値観を普遍的なものと考えているので、「変化」を前提とした発展目標を持っていない。実はその点が今後民主主義国が人類の発展史の中で非民主主義国に後れを取る理由になっているのではないかと憂いているが、それはそれとして、だからこそ他の国も同様だと思いがちになっていることが気になる。中国も今の問題性を抱えたままにとどまると思い込んでいるように思われるからだ。
 そもそも「中国は共産主義国だ」と思っている人は多いのではなかろうか。実はそれは完全な誤解である。昨年の7月1日、北京天安門で行われた共産党設立百周年記念式典での習近平国家主席の演説の中で、何と「共産主義」という言葉は一言も使われていない。それではなぜ「共産党」と呼ぶかと問うならば、「共産党は共産主義の建設を目標にする党」だからと理解するほかはない。
 もともとマルクス主義は歴史発展の究極的な形態である階級闘争のない共産主義社会を「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」、「国家も法もない」理想社会と想定しているから、社会主義革命を成就したからといってすぐに実現するものとは考えていない。共産主義にも発展段階があるとされ、第一段階は社会主義と呼ぶように考えられていた。
 中国でも建国の当初からそれは前提にされていたと思うが、この点が明確に強調されるようになったのは習近平時代に入ってからだ。習主席は、共産党設立100周年に当たる2021年と、中華人民共和国設立100周年に当たる49年との間に、35年という節目を設け、そこまでに「社会主義の現代化」を実現し、その時期以降、富国・民主・文明の社会主義国家をつくり上げることとしている。その時期を「共産主義」の実現した段階と見ているかどうかは不明だが、その理想に近づく段階と見ていることは確かだろう。
 少なくともこの点からしても、中国が現実に「発展」を前提とし、したがって「変化・向上」を当然の目的としていることは明らかだ。このことを私ども外国人は忘れてはならない。

3.AIが人間の能力を超える段階に達した時

 最後に気づかなければならないのは、AIが発達し、人間の能力を超えるような段階に達した時、その時代の人間の経済政治システムが「資本主義・民主主義の発展方向に社会主義が合わさっていく」という方向ではなく、逆な方向になると予測されることである。例えば選挙制度に基づく議会制民主主義は、選挙以外に国民の意思を探る手段がなかったから考案された制度であることを考えると、選挙以上に国民の意思が明確に探れるようになるAI時代には存立の基礎が希薄になってしまう。
 逆に社会主義経済の根幹をなす計画経済は、これまで経済の成り行きが人知をもっては測りがたかったから市場経済に勝てなかったのであって、その欠陥がAIによって埋められるようになると、自由な市場経済よりも効率的になる可能性はかなり強い。
 もし大方の方向がそうだとすれば、その方向に一番近い経済政治システムを持っているのは中国だと言えそうだ。今の中国ではなく、前述した意味での発展した中国がその時代を先導する可能性は相当に高いと見るべきだろう。

あとがき

 このように、中国は変化をし、発展、向上の道を歩む可能性があり、国際社会、なかんずく東アジアの国々はその未来に懸け、これを促進する方向で手助けをし、その過程で問題の緩和を図るべきだと思う。
 世界に先駆けて理想社会をつくろうとしている国は、当然、覇権は行わない、戦争はしない(こちらからは仕掛けないという意味でよい)という自制心を養うこととなろう。この方針をいずれかの時点でさらに明確に世に明らかにすれば、無用な緊張はほどけていく。
 国際社会が非難する人権問題に対しては、「今後人権を重んじます」などと無理に言う必要はない。そうではなく、社会主義の原点である「人民の幸福」こそ最優先だという大方針を明らかにし、その「人民」の中には自国に属する異民族も含まれること、今後諸事情を勘案しつつそれに十分意を用いることを宣言すれば、国際社会は安心するだろう。
 AIの発達は国境の垣根を次第に低くする傾向にある。仮に将来「東アジア共同体」が形成されることになったら、東シナ海も南シナ海も一種の領海になる。そのような未来を考えれば、例の島々や台湾をめぐって血を流すことの愚かさに気づくだろう。「未来の先取り」。このキーワードさえ共有されれば、どちらかが譲ったりせずに戦争は回避できる。
 かつてアジアの舞台で日本をめぐり私見のような役割を演ずる国があったら、あの無残な戦争は避けられたかもしれない。その反省を踏まえ、私はこのような提案をした。

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