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私の日中関係史(1) 戸毛 敏美

日本の侵略、敗戦と新中国成立、そして関係正常化へ

NPO法人大阪府日中友好協会副会長
関西外国語大学外国語学部名誉教授
戸毛 敏美

私は中国東北部で生まれた

 私は生まれも育ちも中国東北部黒竜江省のハルビン市です。それは日本の中国侵略と関係があります。日本は、植民地支配の属国として中国東北地方に傀儡国家満州国をつくりました。満州を支配していた日本陸軍・関東軍は物資輸送に、中国東北地方の馬を利用していました。しかし、いわゆる満州事変により国際連盟を追い出された日本は原油が手に入らなくなったこともあり、力不足の馬の品種改良が課題でした。父は、東大農学部獣医学科を卒業後、品種改良を命じられハルビンの種馬場長として勤務しました。
 戦後、技術者として中国に残り、解放軍の幹部になりました。東北地方では日本人技術者の子弟のために日本人学校があり、私は高等部まで日本語で勉強していました。1949年1月、北京が解放されるとすぐに父は北京転勤となり、一家は北京に住むことになりました。
 しかし、日本人が少ないので日本人学校はなく、私は中国の中学校の2年の後半に編入になりました。必死で中国語を勉強しました。ここでいろいろと大変貴重な体験をしました。

賠償権放棄 泣きながらの議論の末全員賛成に

 1952年、日本は蒋介石政権(台湾に逃れた「中華民国」)と国交を回復しました。その際、蒋介石は「戦争賠償権」を放棄しました。中華人民共和国はどうするか、大きな問題でした。
 その問題を、中学の歴史の授業で討論することになりました。
 もちろん私は出席するつもりでしたが、授業開始前に先生に呼び出されました。「あなたは日本人だから、この授業は出なくともいいよ」と。でも私は、「ぜひ参加させてください」と言うと先生はすごく困った顔になり、しばらく考え込んでいました。最後は、「まあ、いいでしょう!」とおっしゃられました。
 授業が始まるとクラスメートたちは、皆泣きながら日本軍国主義のひどい仕打ちを挙げ「なぜ賠償権を放棄するのだ」と、日清戦争で莫大な賠償金を日本が取り立てたことも挙げました。
 先生は学生がさんざん泣いて抗議した後に、突然「毛主席説!」と切り出し、「日本人民も戦争の被害者です」と三つのことを説明しました。
 一つは「中国は軍人になるのは自願制なのだが、日本は赤紙で徴兵制、つまり兵隊にならざるを得なかったのだよ!」と。次に、軍隊に入ったら軍の命令は天皇の命令、「中国人を殺せと命令されたら殺さないとその人が殺されるのよ!」と。三つには、「中国には自分が人にされたくないことは他人にしてはならないという諺があるでしょ!」と述べ、「今、皆、泣いたよね! 被害者ってとてもつらいよね。では同じ苦しみを同じ被害者の日本人民に与えるのですか?」と言った途端、教室じゅうが騒然となりました。
 前後左右の友達が討論し始めました。しばらくしてから一人二人と手を挙げ賠償権放棄に賛成し、最後に全員賛成した時、私は友達と抱き合って泣いてしまいました。そして思わず立ち上がり、「この授業が始まる前に先生が出なくともいいよとおっしゃってくださったのですが、参加してとても良かったです。皆の心がよく分かりました。私はいずれ日本に帰国しますので、皆さんの心を必ず一人でも多くの人々に紹介します」と約束しました。これが私の日本に帰国しての使命でした。

経済交流再開に命を懸けた日本人

 もう一つ1952年の出来事をご紹介しましょう。日本の経済界、財界、特に関西財界の人々はすごい先見の明があります。中華人民共和国成立後すぐの50年に、高碕達之助、河合良成氏など多くの経済界、財界人が集まり「中日貿易促進会」を結成しました。そして帰国華僑(新中国成立後たくさんの華僑が大陸に帰還した)に手紙を託し、日中貿易再開を提案されておりました。
 ちょうどそれに相呼応したかのように、52年にモスクワで全世界の民主勢力が冷戦構造打破のための大会を開催しました。日本の民主勢力も代表を選出し派遣しようとしましたが、日本政府により出国禁止となりました。しかし、高良トミ(当時参議院議員)、帆足計、宮腰喜助(ともに当時衆議院議員)の3人は別の名義で日本を飛び出し、モスクワへ駆けつけました。
 これを知った毛沢東主席、周恩来総理は、3人を北京に招待、3人は北京に行きました。当時、日本人のパスポートには中華人民共和国へ行くことは禁ずると明記されていました。この3人は数カ月北京に滞在し、日中民間貿易協定を締結しました。2年おきに相互に商品展覧会などを開催することなどが取り決められました。高良トミさんたち3人は、日本帰国の際は空港でも、行く先々の各地でも大歓迎だったそうです。
 中国に国際貿易促進委員会ができ、日本にも日本国際貿易促進協会が設立されました。

「国旗」一つにも双方の民衆間の激しい対立が

 こうして55年に東京、大阪で中国商品展覧会が開催され、協議通り両国の国旗を掲げました。むろん日本の右翼は反対しましたが、中国国旗「五星紅旗」は多くの観客により、また大阪では少林寺の若者、華僑の青年部の皆さんに守られ、大盛会でした。
 56年、今度は北京、上海で「日本商品展覧会」が開催されました。協議通り両国の国旗を掲げましたが、中国では、日本侵略軍の象徴だった「日の丸」のイメージは大変悪く、多くの市民が抗議しました。しかし、政府の役人が、「同じ日の丸でも昔は日本軍国主義や軍隊を代表していたが、今は中国と一日も早く友好関係を回復させようと命懸けで闘っている日本人民を代表しているのだ」と人々を説得しました。
 何よりも効果があったのは、開会の日に毛沢東主席が自ら見学され、「展覧会の成功を祈る」旨の揮毫をされ、翌日、人民日報が大きく報道しました。こうして北京や上海で日の丸は守られました。
 その後58年に、長崎での「中国切手・切り紙展覧会」で長崎国旗事件が起きます。時の岸信介政府は中国を認めず、中国国旗の五星紅旗を国旗とは認めませんでした。単なる器物破損で犯人は釈放されます。片や中国では毛沢東自ら日の丸掲揚に関わったのですから、中国人民は怒り、ついに日中貿易は中断してしまいました。
 それでも59年来の全日本国民的な新日米安保条約反対運動が発展します。中国人民はこれを支持・支援します。こうした中で、日中友好貿易つまり中国に友好的な企業、人々との貿易再開を中国が提案しました。
 こうして、友好貿易は発展し、日本の貿易商社、メーカー、ユーザー企業挙げて日中国交回復運動に積極的に参加するようになりました。

苦難を乗り越えた経済交流

 日中貿易が再開されました。
 この中で特に関西の経済界、財界が、今日の経済貿易関係強化に果たした役割は多大なもので、とても全部を一度では言い表せません。ぜひ皆さんに知っていただき、日中の関係を大事にし、強めていきたいと思います。

(続く)