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[安保条約60年の現実] 日米安保体制下の沖縄に生きて

広範な国民連合顧問
元沖縄県教職員組合委員長 石川 元平

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 去る3月9日の「琉球新報」は1面~2面にかけて、「沖縄は国連の『信託統治』であった」という誤認についての記事を大きく報じた。2014年に刊行され、15年に読売・吉野作造賞を受賞した獨協大学教授の福永文夫氏による『日本占領史 1945―1952 東京・ワシントン・沖縄』の初版本や、2019年に直木賞を受賞した真藤順丈氏の沖縄を題材にした小説『宝島』などにある誤認を挙げている。
 私自身も、2018年5月13日に開催された県民大会の「アピール文」に同様の記述があることに気づき、訂正させたことがあった。
 この際、戦後沖縄の大衆運動の中枢にいた者として、歴史的事実にふれておきたい。

「講和条約」で沖縄を分離

 1951年9月8日の「サンフランシスコ講和条約」の締結・調印は、沖縄などの要求を無視したものであった(日米安保条約、行政協定も同日締結)。この対日講和の動きに対して、『沖縄県祖国復帰闘争史―資料編』は次のように伝える。要旨は「沖縄・宮古・八重山・奄美群島においては『日本復帰署名』が展開された。沖縄本島においても、20歳以上の全有権者を対象に『即時日本復帰』の署名運動が展開され、署名は72・1%に達した。署名は日本の吉田首席全権と米国のダレス特使宛、8月10日に航空便にて、国連経由で発送された。到着した署名は、国連事務局から9月5日に日米の代表に届けられた」。ところが、沖縄群島などの要求は無視された。
 この敗戦国日本と連合国49カ国との間で結ばれた「講和条約」第3条は、「米国は国連に信託統治を提案し承認されるまで、沖縄を含む奄美以南の南西諸島で全権(司法、立法、行政)を行使する」というものであった。ところが米国は信託統治の提案をしなかった。日本は56年に国連に加盟し、信託統治すれば国連憲章78条の「信託統治制度は、国連加盟国となった地域には適用しない」との規定に反するからであった。こうしたなかでも、米国は沖縄を信託統治に置くことができるという立場をとり続け、日本政府も第3条は有効という姿勢をとり続けた。
 講和条約と日米安保・行政協定締結で見落としてはいけないのは、講和条約はサンフランシスコ市のオペラハウスで全権国全員立会いの下に締結・調印されたのに対して、日米安保と行政協定は、吉田全権代表単独で行われたということである。場所は、米陸軍下士官クラブであったという。そこで今日に及ぶ重大な「密約」がなされたのである。「密約」の詳細は今日までつまびらかにされていない。
 私自身は、手元の資料などで類推するのだが、日米安保と行政協定締結に向けては、昭和天皇の意思が強く働いたとみている。その根拠は、①1947年9月の「天皇メッセージ」は広く知られているが、②48年2月にも「2度目のメッセージ」を発している(2017年4月28日「琉球新報」)。51年9月の講和会議がさしせまるなか、③50年6月26日、ダレスが朝鮮戦争勃発の翌日、帰米の途中に天皇に会い、そこで「第3のメッセージ」(口頭)が発せられたことである(「提言」日米安保条約と日本国憲法 中小企業組合総合研究所発行、2016年5月1日)。
 こうして講和条約と日米安保および行政協定を取りまとめたダレスは、日本国内において「望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留する権利」を確保したといわれる。これは52年の講和発効後も、占領軍が当時確保していた「基地特権」を持ち続けるというものである。
 吉田全権代表とて、「天皇メッセージ」による呪縛から逃れられなかったということか。
 戦後75年にもなる今日なお、対米従属の源流となっている「密約」体制下、沖縄へ「安保の十字架」を押し付ける破廉恥な国の姿が哀れに見えてしょうがない。

「北方領土」返還への懸念伝える

 1990年代の後半、私は「北方領土」を所管する根室市長の要請で、根室市における大規模な集会に出席した記憶がある。報告の要請は、沖縄における「祖国復帰運動について」であった。
 私は話のついでに、矢臼別演習場における在沖縄米海兵隊の実弾砲撃演習について、率直な懸念をお伝えした。沖縄での反対運動で追い出された米海兵隊の実弾砲撃訓練とは、海兵隊が誇る(?)152ミリ砲を中心に、「小型核」も発射可能な重火器による実弾演習である。根室市は「北方領土」を所管し、また、矢臼別を所管する地域でもある。そこで最前線部隊の米海兵隊が「ドンパチ」をしようというのは必然的にロシアを刺激し、「北方領土」返還にも悪影響を及ぼすであろう、との懸念を伝えたのである。
 果せるかな、海兵隊の実弾砲撃演習は予定通り九州から北海道に至る全国5カ所で実施された。
 結果は、「北方領土」返還の動きが停滞した。最近になって、ロシアのプーチン大統領のコメントがわかりやすかった。現在の日米安保体制下で日本の要求に応じれば、そこに米軍基地が建設され、ロシアにとって脅威になる、と。私が伝えた通りである。
 全土方式の権能をもつ日米安保体制は、北方領土問題解決のような国民的課題を阻害する要因にもなっているのである。

首里城炎上に思う

 私は、首里城炎上・再建にあたって、昨年11月25日に玉城デニー沖縄県知事へ書簡を送った。再建は、沖縄が主導すべきという提言である。同趣旨の提言は、「沖縄タイムス」の「論壇」(12月5日)にも掲載された。その中で、炎上の炎はウチナーンチュの魂が宿った首里城が、人間の焼身自殺にも似て、安倍政権への抗議の狼煙を揚げたのでは、と書いた。沖縄には、140年前の明治政府軍による武力併合(琉球処分)の悪夢の再来を恐れて生きている年寄りも少なくない。私もその一人である。だから、二度と無法かつ誤った国家権力の手段として、犠牲を被ることは拒否したいのだ。
 沖縄には「命どう宝」(命こそが宝)という平和思想がある。生きとし生ける万物の生命を尊ぶ普遍的な価値観である。首里城正殿に掲げられた「万国津梁の鐘」は、世界への架け橋を物語る。琉球の非武の文化は、かのナポレオンも驚愕させたといわれる。首里城正門の「歓会門」は、イチャリバチョーデー(出会えば兄弟)のごとく、世界に門戸を開き、平和裏に共生してきたシンボルであった。死生観もヤマトとは異なり、宇宙的で太陰暦も生活化している。
 こうした島の安寧を乱してきたのが、日米安保体制に守られた米軍基地である。だから八十路を過ぎても、沖縄の主権回復を追求したい思いは断ち切れないのである。